教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから

【牧師の悩みクリスマス】
  多くの牧師が持つ神学的悩みは、一般信徒に知られる事は殆どありません。それは密かに牧師仲間のうちだけで語られているからです。多くの牧師は信じられない事はごまかしますが、誠実な牧師であればある程苦しみます。この悩みはクリスマスなのです。マリアによる処女降誕の物語です。文字に表された自然的な理解からは、この事実は全く不合理であり、納得できないものなのです。
 聖書辞典にはごく簡単に「神の子の超自然的な受肉である処女降誕は、マタイとルカ福音書誕生物語と受胎告知の中に報じられており、それは聖霊による誕生として説明されている。新約聖書のその他の部分はその事を何も知らない....受肉の秘 儀を比喩的な形で示唆しようとする試みとしてのみ理解できる。」とあるだけです。
 新教会の教えでは、主は「人の子」「神のみ子」「マリアの子」と呼ばれますが、「神 のみ子」とは人間性の中に宿られた神エホバの事、「人の子」とは<みことば>の面 で主の事、「マリアの子」とは自ら身に帯びられた人間性をいいます。(TCR92)これ を良く考えてみると、私たちがみことばを大切にしながら自分の生活を立てて行く 時に、私たちの意志に神からの流入が働き、それに基づいて肉体を持って行為すると言うことが起こっていることが分かります。これが善と真理の一致です。
 上記のような霊的意味が分かって来ると、それは12月25日だけのことでなく日々の生活のなかで起こっていることだと言う認識がでてきます。霊的に考えることができないでただ自然的に理解していると、生物学を無視した比喩としか考えることができません。乙女マリアということも生物学的な処女という事が問題ではなく、「善」への「情愛」を示しています。そこで善と真理の一致した生活をクリスマスを機に自らに問い直すことが求められているのです。これを多くの牧師は知りません。その結果信徒も学ぶ機会がありません。

2015年12月20日(日)牧師 國枝欣一

【大工でマリアの息子】
 マルコ福音書 6:1〜6 には、ナザレで受け入れられない主の様子が描かれています。
 故郷では主がどのような家庭で育てられたか親はどんな人か知られています。ヨセフと言う大工の息子で母親のマリアはどんな人で兄弟姉妹にはどんな人がいる か等。その中で 3 節を見ると「この人は、大工ではないか。マリアの息子で・・・」 とあります。
 四福音書の中で最も古いマルコ福音書の著者マルコは処女降誕神話を知りません。ここではマルコ自身が実際体験したことが直接的に反映していると考えられます。 家父長制度が徹底しており、この時代未婚の女性は父の所有物、結婚後は夫の所有 物でした。従ってここではヨセフの息子と言われる事が当然なのに、「マリアの息子」 となっています。ナザレの人は主が非嫡出子である事を知っていたのです。
 会堂での主の教えの力強さに人々は感銘を受けましたが、ナザレ村の人々は、自分は主を知っている。「大工でマリアの息子」だと言う知識が、信仰の真理と生活の 善からでて来る情愛を阻害します。「マリアの息子」と言っている時に、そこに差別 的価値観が働いています。すると主がどれほど正しく愛に満ちたことばで語っても、 その真意は伝わりません。(AC9188,TCR129) 不倫の息子が何を言うかと言う訳です。
 主を「大工でマリアの息子」と思い込む事の愚かさを私たちも犯していないでしょうか。ナザレの人々と同じ様に、私たちは例外なく色眼鏡を掛けて世界を見ています。それを完全に外す事は困難ですが、掛けていると認識できれば、ナザレ村の人々のような誤謬を犯さないですみます。思い込みでなく、互いに正確に聴き合う事で、私たちは相手の中に主の働きを見、尊敬心を持ち、共に立つ事が可能です。

2015年12月13日(日)牧師 國枝欣一

【車の故障】
 牧師の車は御年 34 才。走行距離 51 万 5 千 km。それでも 12k/L 走ります。かなり過酷な運転をしても不自由を感じる事はありません。ですから買い替える等という 事を考えた事も有りません。ところが 4 日金曜日自分の身体の定期検診に向かった 病院の前でミッショントラブル発生、動けなくなりました。その上予約時間ぎりぎ り。少々慌てはしましたが、ひと呼吸して優先順位は何かと自分に問い質しました。
 先ずは駐車禁止区域なので、フロントガラスに故障の表示、それから前の家を訪 ねて駐車の了解を得て、保険会社にレッカー車の要請。その後病院の受け付けに行 って、検査を受け、診察待ちの間にレッカー手配の返事を待って、診察を受け、支 払いを済ませた所でレッカーが来て呉れ、私は、調剤薬局で薬を受け取って、電車 で修理工場に向かいました。
 その朝家から 5 分程の高速道路に入った途端、車が何時もと違う事に気づきまし た。そこで病院が終わったら修理工場へ行こうと思っていました。そういう事もあ ってでしょうか。時間的にも追われていたにも関わらず、故障で走らなくなって路 上駐車しなくてはならなくなっても余り慌てる事がありませんでした。かえって病 院前で動かなくなった事に感謝の念も感じていました。
 診察を受ける事、車の故障、それに今日は金曜日で教会でしなければならない事が沢山あります。年末を控え、まとまった出費も幾つかあります。修理工場の社長 とはもう40 年来の付き合いです。時間はかかるかもしれないけれど心配するなと言ってくれました。あれこれの心配は主におささげする事にしました。この週報の完成は予定より遅れ5 日の朝になってしまいましたが、主に感謝です。

2015年12月6日(日)牧師 國枝欣一

【霊峰富士】
先週後半は静岡県御殿場の研修施設にいました。事前の天気予報では雨とのことでしたが、初日は雨が降ったものの、午後から晴れ、結果としては3日とも快晴に なりました。箱根の麓は紅葉の最盛期と言った感がありました。この施設には、富 士山をガラス全面に取り入れた「黙想館」という建物があります。壁には筆で書か れた詩篇 121 篇が掲げられています。
 「われ、山にむかひて目をあぐ、わが扶助はいづこよりきたるや」でこの詩は始 まります。そうです。富士山に向かってその部屋に坐ると、富士山に問いかけたく なるのです。その問いかけはしばしば祈りとなります。高い山は世界中で信仰の対 象になっています。ネパールにあるエベレストはもちろんスイスのモンブランも、 アフリカのキリマンジャロもアラスカのマッキンレーも同じです。
 「高い」「低い」と言う言葉は、物差しで測ることのできる自然的物質的高低も表 しますが、同時に物差しでは図ることのできない霊的なものも表します。人格の高 さ低さという様な例がそれに当たります。人格の高さを表す言葉には高潔、高尚等 といいますが、やまとことばには霊の世界と物質世界を相応と言う形で表すものが 多いです。例えば人間を表す「ヒト」と言うことばを考えてみましょう。
 「ヒト」のヒは、日、即ち太陽と霊をあらわします。霊をヒと読むことは現代人 には親しみが有りませんが、かってはヒモを霊裳とも書きました。そして「ト」は 所です。大和の人々は人間を「日と霊のある所」と理解していました。自然的太陽 から発しているものは熱と光、その熱と光は霊的太陽の愛と智恵に相応しています。 「相応の科学」の考え方は古来から人類共通の考え方であると言えそうです。

2015年11月29日(日)牧師 國枝欣一

【おささげ(2)】
 私たちが感謝する時は善いことが起こったときではないでしょうか。事故に会っ て感謝する、重病になって感謝する、仕事を失って感謝するという場合もあるでし ょうが、それは○○になって結果としてよいことが起こったので感謝するというこ とになっているのが普通なのではないでしょうか。そこには因果応報と言う考え方 がある様に思います。キリスト教はこの考え方を否定します。
 新教会は十字架を重要視しません。主の十字架上の死は、主のあがないの実現の 為の過程にすぎないと捉えるからです。私たちに取って大切なのは、主はアルファ ΑでありオメガΩ、初めであり終わりすなわち全てであるという事です。そのため 十字架を使うことは殆どないのです。
 プロテスタントは十字架を重要視します。カトリックは伝統的には磔になったイ エス像が十字架についています。それぞれに意味がある訳ですが、「おささげ」と言 うとき十字架上のイエスが大きな意味を持ちます。理不尽と思える苦しみ、辛さ、 痛み、孤独を十字架上の主に向かって、おささげするのです。そしてそこに従順、 主に従うと言う考え方がでてきます。
 カトリックは救われない宗教とスウェーデンボルグは書いていますが、カトリッ クも 100 年ごとにゆっくりしたペースで変わって来ています。著作にこう書いてあ るから真実と言うのは教条主義と言うものでしょう。開かれた心で接することでカ トリックの知恵から学ぶ所が沢山あります。 それは他人に対しても、同じでしょ う。自分の負の感情を「おささげ」して相手の真意を聞き取る努力をしましょう。

2015年11月22日(日)牧師 國枝欣一

【おささげ】
 先週の事です。半年前に修道院に移動して来たシスターと近隣に住む地付きの老婦人との会話でした。この婦人はその地域で生まれ育ち、婿養子を得て結婚をし、 今日に至っている方です。「せっかく慣れたのに、またどこかへ行くんかね?どうし てそんな厭なこといわれるの?辛いね。」「そうかな?厭な事...はね、あのね、厭な 事はささげるの!そういう事を私たちは『おささげ』って言うの。誰にだって厭な 事はあるでしょ。」というやり取りにいたく心を引かれました。
 「おささげ」という言葉を私たちは使わないのではないでしょうか。ところがカ トリックの人たちは良く使うようです。とても素敵な言葉だと思いました。
 こうした現実の中で、私たちは必然的に「いのち」を考える様になりました。「ヒ ト」が日と霊のある所とするならば、そこから発出するものは熱と光、即ち愛と真 理、それは神です。命という字はお社で神の顕現する箱の前で祈るヒトの姿を描い た象形文字です。神に祈る事によって神と結ばれた者、それが「ヒト」となるので す。人間の次元を考える時、霊はこころと魂を意味付けする要素、「ヒモ」なのです。
 この魂という不変の存在が、神と一体化する時、私達は永遠の命を与えられるの です。この魂は元々神の像であり似姿なのです。それが霊というヒモによって神と 結ばれる時に私たちは不死の永遠の命に入る事ができます。先達の方々は様々な人 生の場面でそれを実践された方々です。私たちが彼らに思いを寄せるとき、彼らが 応えてくれている事を感じます。

2015年11月15日(日)牧師 國枝欣一

【ヒトは死なない】
古代大和ことばで人間を「ヒト」と言っていました。「ヒト」の「ヒ」はお日様、 即ち太陽を表しています。また「霊」という字は「タマシヒ」と読みました。「タマ」 とは賜うであり、「シ」は風とか嵐、息という意味で、「ヒ」は霊であり、神と私を 結ぶヒモを意味していました。現代では紐と書きますが、霊裳と書いていました。「ト」 は所を表します。古代大和の人々は、人間を「日と霊のある所」と捉えていました。
 古代人はこのように霊の世界と現実の世界を日常的、現実的な事と理解していま した。現代人は便利さ快適さを追求する中でこの世の事ばかりに目を向け、あの世 の事に関心を持たなくなりました。そうした中で長寿になり結果として癌になる被 患率が2人に1人になり、3人のうち1人が癌で死ぬと言う現実になっています。 そんな中で東日本大震災によって多くの方々が命を失い、ものを失いました。
 こうした現実の中で、私たちは必然的に「いのち」を考える様になりました。「ヒ ト」が日と霊のある所とするならば、そこから発出するものは熱と光、即ち愛と真 理。それは神です。命という字はお社で神の顕現する箱の前で祈るヒトの姿を描い た象形文字です。神に祈る事によって神と結ばれた者、それが「ヒト」となるので す。人間の次元を考える時、霊はこころと魂を意味付けする要素、「ヒモ」なのです。
 この魂という不変の存在が、神と一体化する時、私達は永遠の命を与えられます。 この魂は元々神の像であり似姿なのです。それが霊というヒモによって神と結ばれ る時に私たちは不死の永遠の命に入る事ができます。先達の方々は様々な人生の場 面でそれを実践された方々です。私たちが彼らに思いを寄せるとき、彼らが応えて くれている事を感じます。

2015年11月8日(日)牧師 國枝欣一

【ノーベル賞受】
 先週は、医学生理学賞大村智氏と物理学賞の梶田隆章氏の話題で持ち切りでした。 お二人に共通していることは地方大学の出身者であること、地道な研究を続けられ たこと等あげられますが、同時にこのお二人に謙虚さを感じたのは、私一人だけだ ったでしょうか。大村氏は都内の定時制高校の教員時代に殆ど年の違わない生徒の 学ぶ姿勢から自分を顧み研究者に転身。梶田氏は一貫して先輩研究者や同じ研究を するスタッフの力をたたえておられます。

 大村氏の研究成果はアメリカの製薬会社によってアフリカの家畜の伝染病に効く 薬となり、更にその薬はアフリカの風土病にも効果を持つことが分かり、無償でア フリカ人に提供され億単位と言われる多数の人々を失明から救ったと記事にありま した。一方梶田氏の研究は私たちの生活にすぐ影響を与えるような研究ではないよ うです。しかし科学の基本的思考を大幅に変え、新たな真理に迫る新しい考え方を 導きだす有力な発見だったようです。

 お二人の理論は門外漢の私には全く分かりませんが、一つのことを地道に続ける ことの大切さ、真理を愛する姿勢、そしてそこからでて来る成果を我がものにしな い利他主義がお二人に共通していると感じます。科学の世界も猛烈な競争社会だと 言われます。その中で自己愛にまみれて他を出し抜く等という例も聞いた事があり ます。主への愛と隣人愛そしてそこから導きだされる役立ちの大切さは、私たち新 教会に属するものの独占的な教えではありません。真理への愛は、主への愛と同じ です。利他主義は隣人愛にほかなりません。スウェーデンボルグの教えは、普遍的 なものだと改めて思います。

2015年11月1日(日)牧師 國枝欣一

【老いの美は、魂の美】
 私たちは様々な場面で洗脳されています。洗脳されているとも気づかずに欲望を かき立てる様に洗脳されています。これがあると便利、これを飲むと健康になれる、 快適な住まいはこれ!こうすると個性が引立つ、これでお金が増やせる等々、枚挙 にいとまがありません。TV コマーシャルには健康で幸せそうな若い家族がでてきま す。新しいキッチン、清潔で良く片付いた家、春直前には花粉症関連グッズの宣伝。
 年を取り、体力が無くなり、疲れやすくなります。目が悪くなり、手先の自由が 利かなくなります。細かい仕事ができなくなります。肌にシミが目立つ様になり、 たるんできます。若さを基準にしていると衰えばかりに目が向く様になります。し かしこれらも洗脳の結果かもしれません。いま、生かされて居る事に感謝とよろこ びを持つ事によって、世の中を違った目で見る事ができるのではないでしょうか。
 価値観は時代とともに変わりますが、それも巧妙に操作される時代です。そこで 変わらない普遍的価値観が求められます。それは持って来たものを手放し、必要と している人々に使って頂くことではないでしょうか。老人の経験、技術、知識、財 産と言ったもの広範囲に渡ります。こうした事は、執着という我を捨てる事につな がります。少しづつで良いのです。手放して行きましょう。
 若さは肉体(健康)の美、物質的この世的美を追求する時とするならば、老いは 魂の美を追い求めるときかもしれません、それは「本当の自分」を取り戻し、旅立 ちの準備をする事です。その先に愛する者やお世話になった人々との再会がありま す。主はその希望をみことばを通して教えてくださっています。自分の内面を見つ め、静かに祈るときを持ちましょう。主と語り合いましょう。

2015年10月18日(日)牧師 國枝欣一
 【映画生きると医師岡部健】
 「生きる」(1952年)は黒澤明監督の映画です。一人のしがない市役所の課長が、がんを宣告されて、落ち込んでいた時、かっての部下の女性に出会って「課長さんも何かつくってみたら」と言われました。この言葉が彼を再生させます。映画ではこの場面にハッピーバスデーの歌が流れます。役所の中でたらい回しにされていた、近隣の主婦らの苦情を思い出し、下水だまりに公園をつくろうと奔走します。
 岡部医師に関しては、東北大学医学部を卒業し、外科医として長年ガン患者の治療に当たっていましたが、病院での医療に限界を感じて、1997年から自宅療養をするガン患者や難病患者の身体的痛みや、精神的苦しみを和らげる為の「在宅ホスピス運動」をはじめた医師であることを知ってはいました。その岡部医師の働きは、3.11震災後、東北大学における「臨床宗教師養成寄附講座」へと結びつきます。
 私は、この二つを、片方は学生時代に映画を見、感銘を受け、他方は、淀川キリスト教病院の緩和ケア病棟やピースハウスのホスピス建設に端を発する1990年代のハード面を整えようとする風潮とは異なった運動と理解していました。「生きる」と岡部医師を別々のこととして知ってはいました。岡部医師は終末期の患者を支える為に医療スタッフだけではそのケアに限界を感じていたのです。

 彼の診療所は、仙台市内にありました。その待合室には大型のプロジェクションテレビがあり、岡部先生はそこでしばしば「生きる」を流し、スタッフ研修にも使われたと3月18日の朝日新聞「be」にありました。古新聞を整理していて、その記事から、私の中に別々に保存されていた記憶がひとつのものとなりました。岡部医師を敬愛している臨床宗教師講座スタッフ達の熱い思いが良く分かりました。
2015年10月11日(日)牧師 國枝欣一
 【言い違え、聞き違い】
 私たちはみな親が違い、環境が違い、それによって価値観も違います。一人一人が違った環境で育って来た為に、同じものやことを経験しても、その反応は実に様々です。従ってアメリカの様な多民族国家では、小学校低学年からShow and Tellとか、中学高校になるとPublic Speakingという授業があり、表現する訓練がされます。その根底には相互理解の難しさを肌で感じていることがあると思います。
 一方日本では、思い遣る、推測することが美徳とされてきました。でもそれは社会の流動性が少なかった時代の話ではないでしょうか。現代社会ではあまりにも価値が多元的で推測することが難しくなって来ています。善意か悪意か、頭の良し悪し、経験の有る無しに関わらず、言い間違え、聞き間違いは、起こってしまいます。そのような時、相手に訊いて確かめる必要があります。
 ところが私たちは、他の人も自分と同じように感じたり、見たり、訊いたりしていると思います。結果として人間関係を壊してしまうことがあります。行き違いが起こるのが当たり前と思っていれば、変だと思えば尋ねてみれば良いし、聞き直しても良いのです。しかしエゴに凝り固まっている場合には、相手を非難したり、悪感情を持ったりします。
 このような状態である時、私たちは神の声を聞くこともできません。人の話を賛成反対は別にして理解することは、誰にでもできるはずです。神はそうした能力を私たちに与えてくださっています。それは真理の追究でもありますし、その姿勢を大切に思う時、結果としては神につながる、神が私の中で働いてくださっているということでもあるのです。だから信仰は生活なのです。

2015年10月4日(日)牧師 國枝欣一
 【老人と認知症】
 日本人の私たちは世界で一番長寿だといわれます。しかし介護を受けざるを得ない期間は10年近くあります。そして私たちは痴呆症になる可能性が高いです。寿命がもっと短かった時代は痴呆になる前に死んでいたので、痴呆症がこんなに問題となることはありませんでした。しかし今日私たちは誰でも痴呆症になる可能性があります。それに伴って多くの人に痴呆になることの恐れがでてきました。
 この恐れは痴呆の老人への差別を生みます。その結果、医療や介護の場面で痴呆の患者は管理されるものということがまかり通っています。また現実的には核家族化が進み、家族が老人を支えきれなくなっています。そこで各種の老人福祉施設が必要になって来るのですが、昨今はその施設が老人のお世話に関して問題を起こしています。また首都圏では特に働き手が不足しているようです。
 社会の尺度が生産性(Doing)だけを問題にしていると老人自身もお世話をする人も厄介者と思ってしまいます。しかし人間存在としてBeingの側面があるということを認められるならば、老人自身も、介護をする人も喜びと自信を持てると思います。老人達は私たちに自分の親は自分を育ててくれた時に、どれほどの時間とエネルギーを使って育ててくれたかということを存在を通して教えてくれているのです。
 お世話をする人が、何ができるか(生産性、Doing)だけでなく、その方の存在から学ばせて頂く時、私たちはBeingというスピリチュアルな側面に目が開かれるのです。その時私たちは魂と魂のふれあいを感じられ、「私はブドウの木あなた方はその枝である」というみことばが、現実的な重みを持って迫って来るように思います。なぜならば、老人が居てくださることで、私たちの存在が可能になったからです。

2015年9月20日(日)牧師 國枝欣一
 【証し】
 旧約聖書の中で証し、証は、2枚の石版に書かれた十戒を「証しの板」、それを入れた箱を「証しの箱」というようにシナイ契約の義務を思い起こさせる物、すなわち証拠として見なされていますが、新約聖書では、主イエスの証言と言う形で用いられています。特にヨハネ福音書では、信仰の対象である真理について、主がヨハネにどう働いたかについて証しすることが重要なことでした。
 現代の教会の中で証しは、主イエスキリストが私にどう関わってくださり、私に取ってどんな良いことが起こっている(起こった)か証言することです。それを家族に、友人に、周囲の人たちにすることです。それがあって人々が集まり、教会が教会になって行くのです。自分に良いことが起こったら、それを誰かに聞いてもらいたくないですか?美味しい食堂があれば、[あそこ美味しいよ]といいませんか?
 新教会はどうもそこが弱いと思います。最近知人が英国の新教会を2カ所訪ねました。4,5人の集まりだったようです。アメリカの教会もそれと似たところがあります。その原因の一つに証しをしないことがあると私は思っています。そしてその思いがますます強くなっています。
 証しの良い点は先ず、話し手が自分の信仰を見直す機会が与えられるということです。一見自分の努力の結果と思えることも、そこに主が働いてくださっていることを見出すことになります。聴き手は、そこから学ぶことができます。信仰は生活であるとは学んでいることですが、本当にそうなっているでしょうか?主は私たちを愛してくださっています。愛されていることを知って安らぎを感じたことはありませんか?それを聞かせてください。お互いが学び合いましょう!!

2015年9月13日(日)牧師 國枝欣一
 【こだわりという我】
 様々な職業、スポーツなどの団体に、ユニホーム、制服があります。それは共同体の自覚を促す、あるいはメンバー間の一体感を醸し出す、仕事のしやすさを追求する結果から出てくるものです。高校や中学にも制服があります。宗教にも様々なユニホームがあります。僧衣を見るだけで何宗のお坊さんか分かることもあります。
袈裟の色でどの位のお坊さんか分かることもあります。
 私は中学の時学生服を持っていませんでした。高校で仕方なく入学式の直前学生服を買ったといった具合で、制服を着ることに抵抗感がありました。大学に入る頃は安保反対運動が盛んでした。私もデモに一再ならず参加しました。デモ隊を規制するのは機動隊であり、警察官でした。しばしばデモが機動隊と衝突し逮捕者が出ました。逮捕の際に過剰な暴力を得てケガする者が続出しました。
 暴力行為を立証し様にも防護服がじゃまして個人を特定できません。警察官に職務質問された時に随分乱暴な扱いを受けたことがあります。その警察官に「身分証明書を見せろ」と要求しました。彼は警察官の制服を指差して「これが身分証明だ」といいました。個人であることを隠すことによって横暴になる危険性は、実は自分の中にもあると認めざるを得ません。自分を自分以上に見せたい自分が居るのです。
 その誘惑を避けるために私は何時も普段着でいました。礼拝中は、背広姿になったり、クレリカルカラーのシャツを着ていましたが、先週、それをもう一歩押し出してくれるメールを受け取りました。発信者はそんなことを意識していなかったでしょうが、彼のメールを通し、主が長い時間をかけて、私のこだわり(我)をここ迄たわめ、私を導いてくださっていることに感謝しました。

2015年9月6日(日)牧師 國枝欣一
 【東日本大震災被災地祈りの旅(1) 】
 震災後何も出来ない自分をずっと悔いていました。昨年の東北大臨床宗教師寄附講座に参加して仙台、石巻、気仙沼地区の被災地を触れる機会を得ました。曹洞宗のお坊さんが月命日に地区の多数の住民が亡くなった箇所を訪ね読経する活動をされていました。また他のお坊さんは被災者住宅を軽4輪トラックに資材を積み込んで訪問。住民はそこでお茶を飲み、お菓子を食べておしゃべりを楽しんでいました。
 今年の5月の連休に下北半島から被災地巡りを始めました。尻屋崎では大雨、寒さの中で育つ馬は雨に濡れていました。六ヶ所村では原子力のリサイクルセンターが建設中。プルサーマルは様々な問題を抱えているのに。半島沿岸では漁師小屋が流されたという話を聴いても殆ど被災の様子が残っていない。この時は太平洋沿岸を南下。岩手県久慈市迄訪問。久慈港は大きな被害を受け、改修中でした。
 今回は久慈からスタート。ここからは河には水門、海には防波堤、浜辺には防潮の為の松林がある地域が多かったが、それらがことごとく破壊されていた。岩泉町という町は全国で初めて異なる行政区の残骸を受け入れた町ですが、その受け入れ先は防潮林の全滅した場所でした。この町には学校の裏に国道へ抜ける階段が付けられた為に一人の犠牲者も出さずに済んだ小本小学校がありました。
 隣町の宮古市田老地区は町の殆どが壊滅状態でした。震災前に3重の防潮堤に守られた町でしたが、それがかえって低地に家を建てることを促進してしまい、多くの犠牲者を生みました。町の墓所を訪ねてみるとまだ墓石の倒れたままのお墓が幾つもありました。高台に住宅地が何カ所も造成されていました。目に見えるハードな部分の復興は進んでいるように思えます。しかし仮設住宅から移転をするにも家族家族によって事情が異なり、難しい課題が山積みということも分かりました。

2015年8月16日(日)牧師 國枝欣一
 【主の働き(2) 】
 31日に浅草のお寺の住職にお会いします。ハワイでCPEの学びをしていた時にお会いした方です。私の実習病院の近くにあるお寺でした。彼はそこに教誨師として派遣されていたのです。私は毎日曜日には様々な宗教、キリスト教はもちろん、仏教、天理教、金光教等の礼拝に参加していました。彼は私の学んでいることに興味を持ってくれ、日本から派遣されている若い僧侶の勉強会に招いてくれました。
 その会に居た日蓮宗のお坊さんがそれから15年後に日蓮宗の世界教誨師大会に私を招いてくれ、6時間程のワークショップをすることになりました。また帰国後、住職になった彼は、スピリチュアルケアを学び、宗派誌に論文を提出する等、かなり積極的に新しい僧侶像を宗派内に提案しています。彼のお寺を昨年、10数年ぶりに訪ねましたが、お寺の中にも新しい試みがなされているのを感じさせられました。
 その彼も帰国して20年。息子にお寺を継ぐよう諭しているようですが、なかなか上手くいきません。私達の教会(信仰)には、日常儀礼といったものがありませんが、仏教の中には様々な儀礼があります。10数年前お訪ねした時、当時小学生の息子二人が父親である住職と共に、ご本尊に向かってお経を上げていました。それを間近に見て、素敵だなと思いました。
 小さい時からお経に親しみ、父親の仕事を繰返し見ている子どもは、現代社会にあって稀な存在でしょう。そこに反発を持つこともあるでしょうが、大人になって父親の担っている仕事の大きさ、大切さに気づくことも多々あるでしょう。困難があっても主の導きに委ねることで彼の家庭に祝福が豊かにあるよう祈りました。

2015年7月26日(日)牧師 國枝欣一
 【主の働き】
 2ヶ月前、TさんをSさん、Oさんと3人でベトレヘムの園病院に訪問させて頂いたおり、チャプレンのSr.北村にお会いしました。気さくな方で私達の祈りに加わり、共に手を重ねてくださいました。(私達は毎回Tさんの手に手を重ねて祈ります)。同じ2ヶ月前からカトリックの信者でスピリチュアルケア学会の認定を受けているKさんという方が月2回訪問するようになりました。
 私はKさんを20年前から知っており、ここ数年は彼女の属しているNPOのスーパーバイザーもさせて頂いています。このNPOは都内で一生懸命スピリチュアルケアを医療、社会福祉の分野に広めようと努力しているグループです。こうした活動の一環で彼女達は講演会も年2回開催しています。2週間前その講演会が四谷でありました。私が講師だったのですが、そこにOさんが参加してくださいました。
 この講演会は、参加者が自らやってみるワークショップ形式だったのですが、その時Oさんがペアを組んでいたのが、Kさんだったのです。もちろんその時点ではお互いにTさんを介してつながっているということは知りません。Kさんからの連絡が木曜日にあったので、水曜日の祈祷会にこられたOさんはまだこの事実を知りません。
 先週、キューブラー・ロスの言葉として「欲しいものは得られないかもしれないけれど、必要なものは与えられる」を紹介しましたが、Sr.北村から情報を得たKさんが、Tさんを訪ね、言葉をかけてくださったことは、Tさんが今必要としていること「人と言葉を交わす」を、主が満たしてくださるということを、思い起こさせてくださる機会と成りました。まさに主に感謝です!!

2015年7月19日(日)牧師 國枝欣一
 【新たな教会を建てる(3)】
 教会に属し、何年も礼拝に参加し、聖書を読み、祈っていながら、信仰が分からない、神の存在を感じられないという人々が居ます。その上、洗礼を受けているので今更信仰が何だか分からないとは言えないという人がいます。確かに、「求めよ、さらば与えられん」とみことばにあるように、求めるということが必要です。
 「求めよ」ということは、自分の欲しいものを求めることではありません。キューブラー・ロスは、「欲しいものは得られないかもしれないけれど、必要なものは与えられる」と言っています。欲しいものは自己愛から出てきますが、必要なものは主から来ます。祈り求めることで自分が何を欲しているのか分かり、それに向けて自分の行動が変わります。自分の行動が変わることで、主の流入が働きます。
 ここに一つの秘儀があります。はじめは理性から働き、その後意志から動き出すというのです。「はじめは理性が働き」というのは、「十戒」にこうあるからこうしてはいけないと思うことです。ところがそれに慣れ親しんだ時には、例えば、視覚障害者が信号のない横断歩道を渡ろうとしている時、すっと手を出せるようになるというのです。困っているから手を貸したいという意志が働くというのです。
 それをある人は「ワクワクスイッチが入る」と表現しました。どんな人にも主が働き、主が掛け心地の良いブランケット一人一人に無償で掛けてくださっている、それが見える、感じられるというのです。自分に無償の愛が注がれていると感じるとそれがワクワクさせるというのです。彼女は輝いていました。生活を楽しんでいました。そこには確かに教会がありました。それが信仰です。パワフルです。

2015年7月12日(日)牧師 國枝欣一
 【新たな教会を建てる(2)】
 ボストンコモン公園、州議会庁のすぐ近くにヘレンケラーが在籍していたボストン新教会があります。地下3階の駐車場、地上15階の立派なビルです。礼拝堂の上はマンションです。1950年当時は400人以上の会員を擁し、聖日には大きな会堂が一杯になるほど力のある教会でした。財力がありますので、今でも、毎月、市内の牧師、役員等が集まり、朝食会が開かれ、今日的課題を論じ合っています。
 20年前何度か礼拝に参加しましたが、毎回10人程度の参加者で、礼拝堂の中は寒々としていました。古い信徒は居るのですが、新しい人がこの教会に参加するという雰囲気は感じられませんでした。家賃収入がある為に、教会員の数が減ろうと献金額が少なくなっても問題にならないのです。東京新教会にも同じような傾向があります。初代牧師には牧師給と伝道費がアメリカから来ていたのです。
 それは1972年迄続いていました。当時迄アメリカは世界で一番豊かな国であり、ドルにも力がありました。ですからコンベンションも自国の教会への援助だけでなく海外の教会へも積極的に援助をしていました。しかし90年代には国内の教会を援助するだけで勢一杯でした。それをつぶさに観ていて私はこれほど豊かになった日本の新教会はアメリカの援助を受けてはいけないと思いました。
 自分たちの祈りと力で新教会を維持して行かない限り、その信仰は本物にならないと感じているのです。教会が何かしてくれるのを待つのでなく、自分の信仰の表現としてどのようにしたら京迂回を支え、発展させて行けるか考えねばなりません。それをスウェーデンボルグは信仰の生活化といっているのです。教会から受け取るだけの受け身の生活からは、信仰が活性化しません。

2015年7月5日(日)牧師 國枝欣一
 【天使にも悪魔の心はある】
 先週は「中東の今と私達」という題で講演会を開き、礼拝でもそれに関連づけて「隣人愛」ということを考えてみました。ずっと隣人愛に立つことの難しさを考えていたからでしょう。私の夢の中にもそうした天界的な愛に対立する自己愛に関する夢が出て来て、嫌な気分になりました。自分の中にある消せない悪への傾向がでて来たのでしょう。
 夢には30年前に一緒に働いていた流暢な日本語を話す米国人が出てきました。彼は原稿を書かねばなりません。彼は私のバックの中にタイプライターが入っていると思い込んで、それを「よこせ!」と言います。バックの中には彼の思い込んでいるそれは入っていません。バックの中にはなぜか包丁が2丁入っています。彼は私のバックに指で穴をあけました。私のお気に入りバックなので、私は怒ります。
 そこ迄来て目覚めました。嫌な気分が残っていました。しばらく嫌な気分の中に漂って、自分の夢を振返ってみました。自分の中にある自己愛である、自己中心性と怒りから来る殺意を表す包丁。バックの所持者である自分とタイプライターを要求する米国人、二人とも自分であるような気がします。私の中にある自己愛をこの夢は表しているように感じます。

 スウェーデンボッルグの著作の中に「天使の中にも悪魔の心はある。悪魔の中にも天使の心はある。でも天使の心の中では悪魔の心が動かないから天使、悪魔の心の中にも天使の心があるが天使の心が動かないから悪魔」という記述がありました。自分の中の悪を見つめるということは、自分の中から悪をなくすことは出来なくても「ある」ということを認めることで「避けられる」のだと気づかされました。
2015年6月21日(日)牧師 國枝欣一
 【私達の中にある悪を取り除く】
 スウェーデンボルグの著作の内、最も人々に読まれている著作が「天界と地獄」です。この著作は日本語に翻訳された最初のもの(1910 年明治 3 年鈴木大拙訳)でも あります。この著作の 598 節に「人は、自分のうちに悪を見、それを認め、ついで それを嫌って、しまいにはそれを避けるようにならなくては、その悪は取り除かれ ません。」とあります。以下この節に関して考えて行きたいと思います。
 スウェーデンボルグ神学の難しさは、知的であるばかりでなく、霊的に展開され ているので、読み手の霊的力でだけしか理解できない点があります。「人は、自分の うちに悪を見」とあるように、自分の内面を見る力が要求されています。その内面 とは、自分の話していること、行っていることの意図、願望、欲求、動機のことで すが、通常人間はこうしたことに殆ど注目しません。従って悪に気づけません。
 「悪を認め」るには勇気がいります。「それを嫌う」までには内的な葛藤を生じま す。これは多くの場合辛い仕事です。この辛さと共に居る時に、主からの流入が働 きます。その流入は「それを避ける」力を与えてくれます。これは体験すればすぐ 解ることですが、未経験者に取ってはとてもハードルが高く感じられます。自分が どうなってしまうのか不安になるのです。
 主は私達を霊的均衡状態におかれ、それによって私達に選択の自由と合理的に判 断する力を与えられています。主は自分の中にある悪を取り除く時に自由と合理性 を使うことを望んでおられます。道徳的善や市民生活上の善は社会生活の中で学び ますが、霊的善は、みことばを読む、祈る、説教を聴く、礼拝に参加することによ って自分のものとなります。
2015年6月14日(日)牧師 國枝欣一
 認知的成熟度というのは心理学的な用語ですが、関連した事に「曖昧さ耐性」なる用語があります。認知というのは物事の受け止め方とか、理解の仕方という事で今まではどちらかというと知的発達と関連づけられて考えられてきました。従って子供と大人の比較においては、知識が多い程理解力が増すので、年齢に応じた知的発達が認められる場合はそれで十分に認知度があると評価されていたのです。
 ところが最近は知的発達だけでは認知的成熟度は測れないという考え方に変わって来ています。そこに「感情」とか「考え方の癖」という事が加味されるべきだと考えられるようになって来たのです。知的に優秀で、仕事の経験に精通していても周囲とぶつかる事の多い人が居ます。他方、知的にも平凡で、キャリアの浅い人であっても、柔軟に判断し、周りと軋轢なくやっていく人も居ます。認知的成熟度という点では後者の方が高いのです。
 前者は「Shoud・・・すべき」と考える傾向が強いようです。後者は「Wish・・・になりたいな」と考えます。前者は白黒をはっきりさせたがります。後者は白と黒の間にグレーゾーンを描きます。前者は「満点を目指すとするならば後者は「取り合えず60点」を目指します。
 信仰的に見ると「Shoud」を多用する人は他人に対して自分が神になってしまってい手、神を冒涜している事に気づきません。後者の中には神が居て、そのままで神が良いのだと私達を受け入れてくださっている事を実践しているのです。 後者には神が働いてくださっており、信仰が生きたものとなり、まさに信仰は生活なのです。
2015年5月10日(日)牧師 國枝欣一
 認知的成熟度というのは心理学的な用語ですが、関連した事に「曖昧さ耐性」なる用語があります。認知というのは物事の受け止め方とか、理解の仕方という事で今まではどちらかというと知的発達と関連づけられて考えられてきました。従って子供と大人の比較においては、知識が多い程理解力が増すので、年齢に応じた知的発達が認められる場合はそれで十分に認知度があると評価されていたのです。
 ところが最近は知的発達だけでは認知的成熟度は測れないという考え方に変わって来ています。そこに「感情」とか「考え方の癖」という事が加味されるべきだと考えられるようになって来たのです。知的に優秀で、仕事の経験に精通していても周囲とぶつかる事の多い人が居ます。他方、知的にも平凡で、キャリアの浅い人であっても、柔軟に判断し、周りと軋轢なくやっていく人も居ます。認知的成熟度という点では後者の方が高いのです。
 前者は「Shoud・・・すべき」と考える傾向が強いようです。後者は「Wish・・・になりたいな」と考えます。前者は白黒をはっきりさせたがります。後者は白と黒の間にグレーゾーンを描きます。前者は「満点を目指すとするならば後者は「取り合えず60点」を目指します。
 信仰的に見ると「Shoud」を多用する人は他人に対して自分が神になってしまってい手、神を冒涜している事に気づきません。後者の中には神が居て、そのままで神が良いのだと私達を受け入れてくださっている事を実践しているのです。 後者には神が働いてくださっており、信仰が生きたものとなり、まさに信仰は生活なのです。
2015年4月19日(日)牧師 國枝欣一
 これはある心理療法の基本前提です。これは考えようによってはとてもスピリチュアルな前提です。他人から見たら、馬鹿な事をしているとしても、その人は現在可能な最善を尽くしているという信念は、どこから出て来るのでしょうか?心理的には私達の無限の可能性は無意識の中に蓄えられており、そこに信頼する事だと言います。
 全能の主は私達が不完全な事を良く知っておられます。如何に主からはなれた価値観を持ち、行動において過ちを繰り返しているかご存知です。しかし私達は生かされています。生かされているという事はそこに主に対する役立ちがあるという事です。どうでもいい人は一人も存在しません。
 また「人は常に現在可能な最善を尽くしている」と考え、それを信じ、実行するとなるとそこには愛が働いていると思えないでしょうか?また他人をそう見られる視点は、主からのモノに外なりません。欠点弱点があっても受け入れられるのは、大きな包容力のある証拠であり、そう出来る人は、自分に対しても受容する力のある人だと思います。
 何かに怒り、悩んでいる人がいるとします。怒りや悩みの原因は外にあるのではありません。何かを聞き怒ったとします。あいつがあんなことを言うから自分は怒っているのだと思うのが一般的です。ところが怒りの真の原因は自分の中にあるのです。怒りや悩みがその人の中に無いならば、何を聞こうが、見ようが、怒りも、悩みも出てきません。
 怒っている時、悩んでいる時、私達はどこかで自分を絶対化し、自分を神にしています。だからその自分を手放す事が大切なのですが、その時点ではその人の出来る現在可能な最善を尽くしているという事が言えます。そう相手にも自分にも言えるようになると、私達はまた一歩霊的に成長できるようになります。    
2015年4月12日(日)牧師 國枝欣一
 これはある心理療法の基本前提です。これは考えようによってはとてもスピリチュアルな前提です。他人から見たら、馬鹿な事をしているとしても、その人は現在可能な最善を尽くしているという信念は、どこから出て来るのでしょうか?心理的には私達の無限の可能性は無意識の中に蓄えられており、そこに信頼する事だと言います。
 全能の主は私達が不完全な事を良く知っておられます。如何に主からはなれた価値観を持ち、行動において過ちを繰り返しているかご存知です。しかし私達は生かされています。生かされているという事はそこに主に対する役立ちがあるという事です。どうでもいい人は一人も存在しません。
 また「人は常に現在可能な最善を尽くしている」と考え、それを信じ、実行するとなるとそこには愛が働いていると思えないでしょうか?また他人をそう見られる視点は、主からのモノに外なりません。欠点弱点があっても受け入れられるのは、大きな包容力のある証拠であり、そう出来る人は、自分に対しても受容する力のある人だと思います。
 何かに怒り、悩んでいる人がいるとします。怒りや悩みの原因は外にあるのではありません。何かを聞き怒ったとします。あいつがあんなことを言うから自分は怒っているのだと思うのが一般的です。ところが怒りの真の原因は自分の中にあるのです。怒りや悩みがその人の中に無いならば、何を聞こうが、見ようが、怒りも、悩みも出てきません。
 怒っている時、悩んでいる時、私達はどこかで自分を絶対化し、自分を神にしています。だからその自分を手放す事が大切なのですが、その時点ではその人の出来る現在可能な最善を尽くしているという事が言えます。そう相手にも自分にも言えるようになると、私達はまた一歩霊的に成長できるようになります。    
2015年4月5日(日)牧師 國枝欣一
 スウェーデンボルグの著作の中に「真のキリスト教」という題の本があります。彼の最晩年に書かれた著作です。この著作があるからスウェーデンボルグ派の教会はどれもこれも真のキリスト教会に成れているかと言うとそうでもありません。みんなそれぞれの限界や事情を抱えながら苦しんでいます。
 解決すべき課題がある事は悪い事ではありません。成長のためには変化が要求され、痛みが伴います。しかしその課題に直面する事を避けたり、放置しておくことで課題は問題へと変化することがあります。私達にはそうした弱さがあります。
 それを認めた上で、痛みと共に立ち向かい成長を遂げるためには、人間の力は限界があります。それを可能にしてくれるものは自我を明け渡し、主にゆだねる強さをどこまで持てるかに掛かっています。
 律法学者が主に「律法の中で、どの掟が最も重要」かと尋ねた時に、主は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39)と応えられています。この二つが大事なのですが、同時にその順番もまた重要です。「主への愛」が1番で「隣人愛」が2番なのです。
 2015年は変化と成長の著しい年となるでしょう。当然痛みも伴うでしょう。同時に私達自身が試される年でもあります。本当に「主への愛」が働いているか「隣人愛」が働いているか?憎しみや怒りが奥に隠れていないか?主の復活の時、即ち私達の霊的再生の時です。共に真のキリスト教会を目指して深く顧みたいものです。
2015年3月29日(日)牧師 國枝欣一
 スウェーデンボルグの著作の中に「真のキリスト教」という題の本があります。彼の最晩年に書かれた著作です。この著作があるからスウェーデンボルグ派の教会はどれもこれも真のキリスト教会に成れているかと言うとそうでもありません。みんなそれぞれの限界や事情を抱えながら苦しんでいます。
 解決すべき課題がある事は悪い事ではありません。成長のためには変化が要求され、痛みが伴います。しかしその課題に直面する事を避けたり、放置しておくことで課題は問題へと変化することがあります。私達にはそうした弱さがあります。
 それを認めた上で、痛みと共に立ち向かい成長を遂げるためには、人間の力は限界があります。それを可能にしてくれるものは自我を明け渡し、主にゆだねる強さをどこまで持てるかに掛かっています。
 律法学者が主に「律法の中で、どの掟が最も重要」かと尋ねた時に、主は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39)と応えられています。この二つが大事なのですが、同時にその順番もまた重要です。「主への愛」が1番で「隣人愛」が2番なのです。
 2015年は変化と成長の著しい年となるでしょう。当然痛みも伴うでしょう。同時に私達自身が試される年でもあります。本当に「主への愛」が働いているか「隣人愛」が働いているか?憎しみや怒りが奥に隠れていないか?主の復活の時、即ち私達の霊的再生の時です。共に真のキリスト教会を目指して深く顧みたいものです。
2015年3月22日(日)牧師 國枝欣一
 人間の一日の活動の何と97%は無意識で行なわれているという現代脳神経科の調査があります。意識的に選択する場面は1日の僅か3%しかないという事になります。一方古来から宗教はみな、執着からの解放の必要性を説いています。執着からの解放とは、角度を変えてみるならば、真の安心、安全の獲得とも言えます。
 人間はだれでも、日々の生活の安心安全を求めています。それに答えを出そうとするのが宗教です。この安心安全に関わる脳は脳幹という脳の最も古い部分と言われています。恐怖、不安、怒り、恨み、悔しさ等は、この安心安全が脅かされたと感じる時に出てきます。そのために幼少期の育てられ方が重要になって来るのですが、大人の私たちには手遅れです。 心理学的にはこうした反応は無意識からわき起こって来るからです。
 この無意識に心理学的にアプローチをするための3つの原則があります。①空白の原則=思い込みではなく、何故なんだろうという疑問を持つ事、②焦点化の原則=ある事からしか見ない、考えないという事に気づく、③快不快の原則=どういう快感を求めているのかを知る、です。
  これを宗教的に考えると、自由な意志に基づいて考え、悔い改めて自己改革を図り、再生を果たすという事になります。この一連の事は「真のキリスト教」に書かれている事です。悔い改める事は自分の無意識に気づく事でもあります。自己改革と再生を繰り返す中で、私たちは異なった意見の人の中にも神が働いている事を、体験的に自分のものとする事が出来ると思います。その時教会は真のキリスト教会になれるのです。
2015年3月15日(日)牧師 國枝欣一
 なんとも具体的テーマで恥ずかしさを禁じ得ないのですが、何が本物で何がインチキなのかを見分ける事の重要さをつくづく感じています。オーム真理教による地下鉄サリン事件の関係者の判決がでました。川崎の13才の少年を殺害した17、18の青年達の供述内容の概略が新聞にでていました。一方は20年前の事件、他方は最近の事件で、全く関係のない事件のように思えますが、ある言葉に接した事をきっかけに、見えない関係が見えるように感じたので、文章にしてみました。 
 その言葉とは、アノミー(anomie)という言葉です。フランス人社会学者エミール・デユルケム(1858-1917)の使いだした用語と言われています。通常「無規範」「無秩序」と訳されているようですが、この言葉の本質は「無連帯」、人と人を結びつける連帯が失われて、孤独になり、不安、狂気、凶暴、気弱な人は死にたくなったり、自殺してしまう状態を言うようです。
  オ−ム真理教信者の中には一般的にはかなり優秀な青年達がいました。このかっての青年達も、17、18の青年達も共に、人と人をつなぐ連帯の中にいない無秩序な状況の中に落とし込められ結果の孤独や狂気や凶暴だったのではないでしょうか?この無連帯にインチキ宗教が入込んで来る危険性があります。オームはその典型でした。
 インチキ宗教の①金儲け宗教 ○○を買えとか家屋敷まで差し出せなんて言う。②奇跡をひけらかす宗教 宙に浮けるとか病気を治せるという事を理由に自分が教祖だとか神の代理人と言う。③学問を売り物にする宗教 学問のある無しは信仰に関係ない。④組織力を誇示する宗教 組織が大きくなればなるほどその宗教原理は曲がって行く。中世のキリスト教と教会、修道会の関係。宗教改革が必要だった。 
2015年3月8日(日)牧師 國枝欣一
 中東IS(イスラム国)の人質殺害事件、アフリカボコハラムの誘拐殺人事件、そして最近の名古屋での女子大生に依る殺人事件、又川崎の中学生が殺された事件。世界が暗くなるような感じがします。
 それぞれ関係の無いような事件を並べましたが、ISに対してはヨルダン軍の空爆、あるいはクルド人部隊が反撃を強めているようです。こうした戦いでISやボコハラムを押さえ込むことが出来るのでしょうか?実は名古屋の事件も川崎の事件も、ISやボコハラムに通じるものがあるように思います。
 そして、その心の状態は、私たちの心の中にもある闇とつながっているのではないでしょうか。キリスト教ルーテル派の国であるドイツでは、ナチス政権をゆるし、多くのユダヤ人を殺しました。日本のキリスト教会もまた先の大戦中に大東亜共栄書簡なるものを発し戦争に加担してきました。私たちの東京新教会も戦後早いうちに教団から袂を分かちましたが、その責任をまぬがれません。
 事件の表面だけ見ていると、中東やアフリカは遠い国です。名古屋の事件も、川崎の事件も別世界の出来事のように思えます。しかし私たちは加害者の持っている被害者性に目を向ける事が必要でしょう。先進国は中東やアフリカに何をして来たのか、大人は加害者である青年達の傷ついた魂を何れ程知っていたのか。私たち自身の心の闇を見つめないと、相手への尊敬心も愛も生まれてきません。結果として平和も訪れません。 「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」という祈りの切実さをつくづく感じます。 
2015年3月1日(日)牧師 國枝欣一
 日本人のクリスチャン人口は日本人全体の1%弱です。ところが正確な数字は知りませんが、仏教の僧侶の中に仏教徒としての信者は1%以下ではないかと危惧している人々が居ることを知りました。そう聴いて驚きました。
 正月やお彼岸にお寺にあるお墓に家族でお参りに来る人々は確かにいるけれど、お寺の門をくぐって、お墓参りに必要なお花やお線香を買い求めるためにお寺を訪ねても、お墓参りの前後にご本尊に挨拶する人は滅多にいないと言う事でした。
 震災とその後の津波で仏壇のご本尊を持ち出せなかった事を悔やむ人はいないけれど、過去帳や位牌を持ち出せなかった事を悔やむ被災者は多い。私も仙台、石巻を訪ねさせて頂いた時に経験しました。
 天皇皇后両陛下が被災地を訪問されたテレビ画面を見ていて、誰よりも訪問されるのにふさわしい方と感じたのは私だけではなかったと思います。天皇制に違和感を持つクリスチャンの私ですらそう感じるのですから、不思議です。
 室町時代に日本に来たフランシスコ・ザビエルはキリスト教信仰を受け入れた(受け入れる)日本人が良くする質問に「私の先祖はどうなるのか」というものがあり、それに応えられなくて困ったとローマに手紙を書いているという事を物の本で読みました。
先祖を大切にする、先祖崇拝はキリスト教にも仏教にもありません。古代神道からの伝統と万世一系という天皇制が私たち日本人の無意識の中に深く刻み込まれているのでしょうか。スウェデンボルグ神学は日本人の霊性に合っていると言われながら、広がらない現実を見ながらふっと思った事を書いてみました。
2015年2月22日(日)牧師 國枝欣一
 病気や事故で愛する者を失った人、癌の告知などでいのちの危機に直面している人、家族内の深刻な葛藤や困難に直面している人。こうした人々が、周りの人から何れ程心無いことばを投げかけられて苦しんでおられるか、私たちは、気づいていません。ご本人が傷ついた事を伝えてくれる事は滅多に無いからです。私もそうして相手を傷つけた失敗の経験があります。
 元気づけたい、慰めたいという気持ちが、相手を傷つけるのです。又ある場合は、自分がその方の抱えている困難な状況に耐えられそうも無いと感じている時も、相手を傷つける場合があります。また話し手がその状況を負の状態と見ている時に、聞き手が正の状態と見ている時も、相手は傷つきます。厄介なのは、援助をする側が、善意であり、相手を傷つけているという状態になかなか気づけないという事です。結果として傷ついている人はますます孤立感を深めます。
 介護は私たちの世界では身近に起こっている大きな課題です。介護の悩みを抱えている人は沢山います。最近は介護カフェというのがはやっているそうです。同じ悩みを持っている人々が集まって、経験の無い人には話しにくい問題も理解し合い、場合によっては解決策を学べたり、経験を交換する事で、孤立しないでよい事に気づけるのだそうです。このような事は、実は教会の持つ大切な働きなのでは無いでしょうか?新教会は今までの概念から離れたこの介護カフェのようなところで始まっているのではないでしょうか。東日本大震災の被災地では曹洞宗のお坊さんに依る「カフェ デ モンク」=カフェで文句等という活動がありますが、ここにも新教会の芽が出ている事に気づかされます。そこから私たちは何を学びましょうか?   
2015年2月15日(日)牧師 國枝欣一
 大雪は地方の過疎化の大きな要因だと言われています。そして今は東京、千葉、神奈川の三県に人口は流入しています。産業があり、働き口が得やすいということもあるようです。また大学が首都圏に集中しているために若者が首都圏に集まり、そのまま居着くことも大きな要因のようです。首都圏にはあまり雪が降りません。冬の終わり、春先にちょっと振る程度です。
 雪が降ると思い出すことがあります。小学校2年の時ですからもう60年以上前のことです。自宅と学校は近く走って行けば、5分以内に教室の机に座れる距離です。雪は当時は10cm、20cmと積もりました。玄関をでて20mも行かないうちに長靴に雪が入り内に戻りました。靴を履き替えて40mも行くとまたもや長靴は雪に埋まり家に戻りました。足は冷たく学校に行くのも嫌になり、母親に学校まで送ってもらったことがあります。授業は始まっており恥ずかしい思いをしました。
 この思い出を思い出すたびに今は以前よりずっと温かくなったと思います。豪徳寺えきから歩いて来るユリの木公園の遊歩道にはハマユウが植えられています。以前であるならば路地植えで冬越しの出来なかった種類です。それが霜や雪に負けるどころか確実に増えています。教会の庭には紅梅がつぼみを膨らませています。温暖化と言っても春が待ち遠しい今日このごろです。
2015年2月8日(日)牧師 國枝欣一
 最近様々な事件が起こっています。フランスに於ける新聞社襲撃事件、イスラム国に依る人質事件、名古屋の殺人事件等々。東日本大震災の時も感じたことですが、同じ事件、災害に関して海外に流れる映像と国内で流れる映像の違いに違和感を感じます。日本の報道機関は自主規制という形で国民の知る権利を阻害しているのではないかということです。
 善意であっても私たちが判断する機会を奪われているようにも感じます。ヘイトスピーチや、人質の惨殺が許されることは無いとしても、なぜそうせざるを得ないのか、私たちは知る必要があるように感じます。名古屋の女子大生に依る殺人事件も私たちの想像を超えています。それをただ怖い事件とだけ思ってしまうと、彼女の更正する機会を奪ってしまう危険性があります。テロに賛成できません。しかしテロリストは何時も殺されています。それでは彼らの本当の意図を私たちは知る機会を得られません。憎しみの連鎖を断ち切ることは出来ません、
 1981年1月私はエジプト、カイロの郊外で開かれていたラクダの大きなバザール会場にいました。アフリカ、アラビヤ各地から集まった人々がラクダの売り買いをしていました。私はアラビヤ語が全く分かりません。そこでは英語も殆ど通じませんでした。不安感を通り越して恐怖感を感じていました。それは1965年1月に居たタイのカレン族の村カンチャナブリに居た時とは全く違った経験でした。違いは、私自身が、現地の情報を何れ程持っていたか、相手とする人の数、それもある目的を持って集まっている人々の中で私は全くの部外者ということがあり、その上そこに居る人と個人的な関係が築けなかったということがあると思います。文化や、歴史観をはじめとする価値観の違いがあっても、相手に対して理解しようとという気持ちを持ち、その意図を知ることが出来れば、賛成でなくとも理解は可能です。その結果差別を減ずることが出来るのではないでしょうか。 これは他者に対する愛の問題です。
2015年2月1日(日)牧師 國枝欣一
 1月20日オープンスペース"Be!"と教会の話し合いがありました。"Be!"は25年前から不登校の子供達をたまり場として世田谷区下馬で始まりました。20年前からたまり場を東京新教会に移して今日に至っています。25年前20年前の子供達は30代位40代になっています。彼らを受け入れてくれる場はごく僅かです。彼らを支えるために毎月フリーマーケットを開催して社会に触れる機会とすると共に地域にリサイクルを呼びかけてもいます。毎月第四土曜日に250人程のお客さんが来ます。
 教会は災害にも安全安心の礼拝が出来るようにと改修工事を延べ130余人の協力を得て昨年暮れ終えることが出来ました。感謝なことです。そのために教会のメンバーは教会が信仰によって維持される建物として利用者に理解して欲しいという強い願いを持っています。
 そこで話し合いが持たれることになりました。"Be!"の指導的な立場にある3人と教会から5人が話し合いの場に集まりました。今までは"Be!"の責任者である佐藤と教会の責任者の牧師の間でのやり取りでやってきましたが、今回両者の主立った者達が相集いお互いの意図と願いを知ることで相互に深い理解を得ることが出来ました。この話し合いに主が強くそれぞれに働いてくださったことを感じました。主の働きがあってそれぞれの理解を深めることができました。まさに「主に感謝!」です。
 24日はフリマの日でしたが、その準備の間教会の願いを実現するために"Be!"のメンバーは知恵をしぼっていました。私たちは何事も批判的な目で見ることになれています。こうした視点からは共感し理解することが難しくなります。しかし意図や願いを理解しようという姿勢を持つとき主の流入が働き相互理解が深まります。その具体例が今回の話し合いに現れていたように感じ心が温かくなりました。信仰はまさに生活です。 
2015年1月25日(日)牧師 國枝欣一
 昨年の11月召天者記念礼拝でのことですが、お一人の参加者から嬉しいお話をいただきました。会員の方(Aさん)が亡くなって、葬儀、埋葬、その後の記念会と、ずっと継続的に関わらせて頂いているご家族のお一人です。亡くなられたご本人だけがクリスチャンで、あとのご親族は全員、あるお寺の檀家ではあっても、仏教の信仰を持っている訳でないご親族の方々です。しかしAさんの信仰を尊重して、仏教の法事と、同じように記念会を持ってくださり、毎回牧師である私を招き、その方を思い、偲ぶ機会としてくださる方々のお一人です。
 3度4度と招かれる内にご親戚の方々ともだんだん親しくなりました。そのような背景があって、ご親戚を代表するような形で参加してくださいました。彼女はこんな風に言ってくださいました。「叔母が亡くなるまで、私たちは親戚付き合いを殆どしていませんでした。バラバラだったのです。それが叔母が亡くなってから、親戚付き合いが復活したのです。ですから今日は、叔母にお礼を言いたくて参加させて頂きました。」
 生前、Aさんは殆ど礼拝を欠くことはありませんでした。何時も定位置に座られて、礼拝に参加されておられました。静かな方で、その方がいると何となくその場が和むようなところがありました。私はその方が礼拝堂で決まった位置に座ってくださっているというだけで元気づけられていました。そして旅行が好きで、晩年までご自分より若い友達の多い方でした。
 お話をしてくださったのは、この方の姪に当たる方です。その言葉を聴いて、死は終わりではないと思わされました。Aさんが、主からの使命を今なお果たされていることを強く感じました。A主に感謝しました。
2015年1月18日(日)牧師 國枝欣一
 おめでとうございます。2015年のスタートです。つい数年前まではSF小説だけのことであったことが現実味を帯びて来ているようです。20年前難病の患者さんや老人の介護のために腰を痛める看護師、介護士が多くなってハワイの病院や施設では腰を保護するベルトが使われることが一般化していました。患者さんの介護のためにリフトも使われていました。ところが今ではこうした場面でロボットが使われ始めて、人間の力を補助してくれるようになり始めています。
 ロボットとは違いますが、電動アシスト自転車は、ものすごい勢いで普及しています。私の家は丘の上にあり、若かった頃サイクリング用の自転車でも乗ったままでは家に着くことが出来ませんでした。ところが今では中年の婦人が電動アシスト車で楽々と上がって行きます。特に子育て中の母親には大人気のようです。
 宇宙ステーションと地球の間は、現在ではロケットで資材を運んだり宇宙飛行士を運んだり帰還させたりしていますが、これも宇宙エレベーターが現実味を帯びて来ているようです。これが実現すると宇宙開発が一気に進み、私たちの生活も大きく変わることでしょう。
 しかしどんなに科学技術が発展しようとも、私たちの心の問題は亡くなりません。科学信仰に陥ること無く、「主への愛」と「隣人への愛」は不可欠です。常にこの世のことと、霊の世界の両面に渡って注意を向けつつ、自分の信仰を吟味し、新教会のあり方を模索して行きたいと思います。今年もどうぞよろしく。
2015年1月11日(日)牧師 國枝欣一

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