教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから
国民の70%近くの人々が、12月14日の衆議院選挙に疑問を感じているようです。ところがつい先日の新聞紙上に今度の選挙で自民党は300議席を確保しそうだとありました。ここから想像できることは、支持政党を見出せない人々の次善の選択ということなのでしょう。でもそれは国民が「今だけ、金だけ、自分だけ」の「三だけ主義」に陥っているとしか考えられません。このままで、子供や孫の時代が幸せになるでしょうか。
 以前、お隣のゴミがブロック塀を超えて飛んで来たことを驚いた、そんなことはサザエさんの漫画の中に出て来る話と考えていて驚いたとこの後記に書いたことがあります。秋になると私の家では落ち葉が45Lのゴミ袋60袋ほどでます。隣に新築の家々が建ち新しい住民が入ってきました。1件のお宅ではおばあさんが毎日掃いてくださいました。しかし代が替わり娘さんは自分はリュウマチで出来ないと言いつつ、私の敷地に落ち葉を投げ込みます。そのお隣には老夫婦が亡くなった後、3人の子供を持った家族が入居しました。祖父母は近くに住んでおり、孫の幼稚園への送迎を楽しんでいる様子です。孫の登園準備が整うまで祖父母は息子の家の周りの掃除をします。そのご夫婦も集めた落ち葉、ゴミをやはり私の敷地内に捨てます。 
 いつかその現場を捉えて話し合ってみようと思っているのですが、サザエさんの漫画の話ではなく日常茶飯事になってしまったかと暗澹たる気持ちになります。その行為が子や孫にどう伝わるのか考えてもいないような気がします。これも「三だけ主義」のひとつかなと思います。とするなら自民300議席以上というのも納得せざる終えないと、またこちらも暗澹たる思いになります。
2014年12月7日(日)牧師 國枝欣一
日本人はどの国の人々より宗教心の厚い国民だと感じます。しかし信仰を持っているかというとそうでもありません。現代は大分変化して来ているとしても、お彼岸、お正月にはお墓参りに行く家族は多いと思います。日本人家族の多くは檀家になっており、どこかのお寺に属しています。お墓もお寺に属していることが多いです。
 しかし、お墓参りに行った人々が、お寺のご本尊にお参りすることは殆どないというのが実情だそうです。お墓参りをする習慣はあり、先祖崇拝はあっても、仏への信仰は無いのです。お坊さん達の中には仏教信者はキリスト教の信者日本の人口の1%に満たないのではないかと危機感を持っている人もいます。
 これらは東北大学の臨床宗教師講座に出てみて知った事実ですが、東日本大震災以降、仏教の世界に大きな変化の波が起こっていることも感じます。それは専門家である僧侶の中に起こっている現象であるとともに、檀家の人々の間でも起こっている現象でもあります。東日本大震災が仏教の再生を促しているのです。
 私たちの東京新教会は、震災へ向けて耐震性を増すことを目指して改修工事中ですが、これを新教会のルネッサンスと捉えようという動きがあります。私たちの信仰を今一度問い直し、General Conventionであることの意味を改めて噛み締める必要性があります。私たちが持っている思い込みと言う過去の遺産から自由になり、スウェーデンボルグが指し示してくれているその先にある新教会を見つめる必要があります。
 今日から主の来臨を待ち望む待降節が始まります。私たちにはもう既に主は来てくださっています。それを感じ強化される生活とはどんなものか、自問自答したいです。
2014年11月30日(日)牧師 國枝欣一
生物が単細胞のものから多くの細胞で出来ている生物に進化したように、キリスト教も中東ではじまった原始キリスト教会から、今日のキリスト教の様に進化してきました。キリスト教会がイスラエルから始まってヨーロッパ、アジア、アフリカへと広がって行く中で、その地方の土着の風習や民間信仰を吸収して、自分の信仰の中に取り込んで行きました。クリスマスはその典型です。
 現代では日本でもヨーロッパでも街路樹が電灯で飾られ、それを人々は楽しんでいます。これは、北欧の風習を取り込んだ、もみの木を飾って長く暗い冬を過す習慣に、ルッターが、ローソクを灯したのが、クリスマスイルミネーションの始まりといわれています。ルッターもなかなかのアイデアマンだったことが伺われます。
 アメリカではクリスマスに七面鳥の一羽が丸ごとオーブンで焼かれたものが食卓を飾ります。学校や、仕事で遠く離れた地域に住んでいる家族が、クリスマス休暇を父母のところに集まります。全米で人の動きが激しくなり、この時期空港や、大きな駅で家族がハグし合うのを良く見かけます。焼かれた七面鳥を家族のために捌き、切り分けるのは父親の役目です。クリスマスは家族とともに過ごすのがアメリカの伝統の様に感じました。
 日本の若者は、どうでしょうか。家族と過ごすより、同年代の仲間と過ごす方が多いのではないでしょうか。そこに文化の違い、信仰心の違いを見るように感じます。しかし主の誕生は世界で祝われます。こうした中で新教会はどう動くのか、何を伝えるのか、私たちは考え、どのようにクリスマスを祝うのかと企画をしなければなりません。
2014年11月23日(日)牧師 國枝欣一
キリスト教信仰の原型は「契約」です。それは神がイスラエルを選び出エジプトを断行させ、約束の地、乳と蜜の流れる地、カナンへの定住という形で示されています。神の戒めを守ることが、約束の成就ということを実現させます。弱小民族のイスラエルを神は選んだということが重要です。
 それをユダヤ人は自分たちだけが選ばれた民族、特別な民族として、他の民族に優越していると考えたことが、不幸の始まりとなりました。それ故にユダヤ教は、国を失っても、メシア(救い主)を待つ民族としてのアイデンティティーを維持することには貢献しましたが、世界宗教になれませんでした。
 キリスト教はユダヤ教を母体にしましたが、メシア、キリストを信じ、キリスト教徒になれば誰でも救われると主張し、再びメシアが来るという約束を待っている宗教です。新教会は、メシアは既に来られて、今まさに私たち一人一人に働かれている。それを感じ取ることをスウェーデンボルグ著作を通して聖書の霊的意味を把握することによって可能になっていると主張します。
この時、把握したことを大切にすることがあって初めて主が近づいてくださるという「相補交流」が起こります。把握したことを大切にする過程では、合理的に判断して、自由意志に基づく選択が必要です。これが主から基本的に与えられている性格です。この基本的性格を使う時には「聴く」ことがどうしても必要です。「聴く」には。字のごとく大きな耳と目と心を十分使わなければなりません。これらをフルに使う時、自分の相手とする人の中に主が働いておられることを認めることが出来るのです。新教会人に取って「聴く」ことに習熟することは不可欠です。
2014年11月16日(日)牧師 國枝欣一
「今だけ、金だけ、自分だけ」を三だけというそうです。「今だけ」は今の快適さだけを追求する原子力発電に例えられるでしょう。安全神話のもと廃炉にするためにでる放射性廃棄物の処理等何も考えてきませんでした。今が良ければ良い、未来のことは考えない姿勢です。「金だけ」は儲けるだけを考え、人間性や自然環境等考えません。「自分だけ」は自分が良ければ、他の人の迷惑など気にかけません。
 ある大学の看護学部の学生に自由と自分勝手という話をした時に、一人の学生が立ち上がって、反抗心をむき出しにして「私は先生の考え方と違います。」と言いました。その拒否的な態度の強さに驚かされましたが、次の年から学生に同じ課題を考えてもらい、発表してもらうことにしました。すると中には自分勝手と自由の区別のつかない学生が居ることに気づかされます。その学生の多くは三だけ人種です。
 しかし周りの友達の意見も聞くので、今発表されたこと元に自由と自分勝手の違いを私が話し手も、学生達は受け入れてくれます。三だけ人種は青年ばかりではありません。企業家にも政治家にも官僚にもビジネスマンにも父親母親の中にも居ます。教会によっては幼児を持つ親は礼拝堂に入れず母子室に隔離されます。これはどちらの側の三だけ主義なのでしょうか?私が神学生時代に体験したメイン州ポートランドの教会では、子供達の居るスペースは、礼拝堂の一番前の空間にマットレスやクッションが自由に置かれ、子供達は一番居心地のいい場所を選んで、座ったり寝転んだり遊んだりしていました。
 自由には責任が伴いますし、常に周りの存在をその視野に入れています。周りの人の存在を十分認識して、自分とそれぞれの役立ちが分かって選択し、行動する時、私たちは三だけ主義を克服して、天界をこの世に実現できるのではないでしょうか。
2014年11月9日(日)牧師 國枝欣一
熊沢二郎牧師が16日夕刻に召天されたことは既にお伝えしました。お通夜と葬儀は21,22日に文京区の伝通院で行われ、ゼネラルチャーチの復活式は23日栄世二牧師司式、説教ヤン・ジン牧師で中野プラザで行われました。
 伝通院での出棺式の時、喪主のご長男の挨拶の前に,奥様の房江さんがご主人の新教会との出会いから牧師になるまでのお話をされました。伝通院の本堂の前,しかも住職の前で、ご住職の許可を得て、ご主人の信仰の中身を披露された,その勇気,ご主人の遺志を参会者告げられた彼女の夫への愛情を深く感じさせられ,感銘深い場に居合わせられたことを主に感謝しました。
 日本人のかなりの部分はどこかのお寺の檀家に属しており、お墓もそのお寺に付随した墓地に有る、しかし信仰は持っていないというのが一般的な状態ではないでしょうか。多くのお坊さんはそれを現実として受け入れているという話は2週間ばかり前に、直接お坊さん達から聞いたばかりの話です。
 スウェーデンボルグはその人が持って来た信仰や,価値観を否定するのではなく,そこに新教会の教えを接ぎ木すれば良いと説いています。日本人は何々教、何々宗という信仰は無くても、祖先崇拝の気持ちは強いのではないでしょうか。東日本大震災の被災者からも、位牌を持ち出した、持ち出せなかったと言う話を、何人もの方々から伺いました。それほど先祖に対する思いは強いと思います。
 23日の熊沢牧師の復活式では、ご家族を始め参加者一人一人が在りし日の熊沢牧師を語り,死の意味を考え,霊の世界の実在を確認できる良い会となりました。
2014年10月26日(日)牧師 國枝欣一
石巻の曹洞宗法山寺を1日目の会場として始まった研修は、オリエンテーションの後すぐに追悼行脚に入った。法山寺住職は月命日に沢山の犠牲者の出た場所を尋ねお経を上げているという事だった。私たちもそれぞれの宗派宗教の式服を付けて巡礼をした。沢山の子供が亡くなった小学校、中学校、患者さん、看護師の亡くなった精神病院、最後に沢山の行方不明者のために河口に出て、皆で祈りを捧げた。
 カフェ デ モンクについては東日本大震災のニュースに関連してしばしば新聞紙上で取り上げられているのでご存知の方もおられるでしょう。曹洞宗の金田諦晃というお坊さんが始めた被災地でのお茶会です。被災地のいろいろなところで移動お茶会が開かれています。Café de Monkは「僧侶のカフェ」ですが、monkは「文句」に通じます。お茶を飲み、お菓子を食べながら集まって愚痴を吐露し、文句も言い合いましょうというアイデアのもとに始まりました。
 昼食はコンビニの駐車場でそれぞれ済ませ、千人弱の住む被災者住宅へ。Café de Monkの設営。テントを張り、会場づくり、お茶を用意し、様々なデザインのケーキ120個が用意された。お寺の近くのケーキ屋さんが毎回無償で寄附してくださるのだと言う。私たちは来場者の方々(90名以上)とお話を聴かせて頂く。私たちは被災状況を聴かせて頂こうとはしていないのですが、何気ない日常の話から皆さん、被災後の辛さを述べられた。私は6人の方々からお話を聴かせて頂いたが、その全部が被災後の辛さや、悲しみ、不安を吐露された。話さざるを得ないという感じだった。心の傷はまだまだ言えていないという感じだった。
 多くの人を巻き込みながら行われている法山寺の北村住職の月命日の行脚、通大寺の金田住職のCafé de Monk。そしてスタッフも入れて中堅若手の僧侶たちから学ぶところの大きかった研修でした。
2014年10月19日(日)牧師 國枝欣一
スェーデンボルグは、私たちの霊的成長は、悔い改め、自己改革、再生へと進んで行く。それは自然的状態から、理性をもとにして考える過程を経て、意志をもとにして愛する過程だ(真のキリスト教571)と言っています。
 実は人間は皆、いのちの源である神と密接につながっていました。乳幼児期がその時代です。乳幼児の純真無垢は親の全介護があって保たれ弱い存在の様に私たちは思いがちですが、実はとても力強いものです。
 ひとつ例を挙げましょう。現在40代の女性がいます。彼女が12才の時に両親は離婚しました。彼女はずっと両親がよりを戻して欲しいと願い続けていました。彼女が成人し結婚をして子供が与えられて、働いている彼女は母親の協力を得て子育てをしてきました。分かれた彼女の父親に取っても孫の誕生は喜ばしい事で、しばしば孫に会いに来ました。そんな状態が3年4年と続く中で両親はよりを戻し、彼女の願いが、実現したのです。孫の純真無垢が別れていた二人を結びつけたのです。
 でも人は成長する中で自我を育てて行きます。この自我が私たちを神から遠ざけてしまうのです。自分の自我を良く見つめ、そこにある悪しきものを見出し、「悔い改める」ことが必要になるのです。悔い改めたことから離れるために「自己改革」が必要になります。大人の私たちは理性に基づいて悪しき事から離れなければなりません。それを繰返している内に習性となり、それを好む愛が育ってきます。ここに「再生」が生じ、霊的な成長が起こるのです。
 老人の無垢と乳幼児の無垢は相性がいいと言われます。それは世のおじいちゃんおばあちゃんは孫が好きという事に現れているでしょう。再生を繰り返す中で、自我を手放す事に依って、主と結び付くのです。その時幼児の持つ力強さを私たちは再び与えられる事になります。 
2014年10月12日(日)牧師 國枝欣一
アメリカの公民権運動の指導者マルチン・ルーサー・キング牧師は、「黒人の子供と白人の子供が一緒に学ぶ機会が来る」とでも参加者に呼びかけました。南アフリカのネルソン・マンデラ氏は南アフリカ人という表現の中で白人とそれ以外の人種を差別するアパルトヘイト政策の撤廃、即ち白人とそれ以外の人種の平等の権利としてそれぞれが1票の選挙権を持つ事を白人政権に要求しました。
 平等とは何でもかんでも同じ量の物が与えられ、同じ権利が与えられるという事ではありません。平等には常に公平の原則が付いて回ります。例えば生命の維持も困難な状態にいる人々には、他の困っている人がいたとしても、全てを置いてその人々に食料援助がなされます。生命に維持という事が平等や公平の原則の重要な要素だからです。社会的弱者の権利が守られる事は、国民、市民としての平等に与えられている権利が守られる事で、公平となります。
 私たちの教会は会衆制度をとる教会です。会衆制の基本は万民祭司であるという事です。
教会の中では皆平等です。牧師不在の場合は信徒の中から、話し合いで誰かが一時的であっても、その役割を取ります。又日常的には牧師の役割のある部分を会員として担う事でもあります。会員は、牧師も含めて全体の中での1票で、平等に権利と義務があります。一人一人の意見が尊重され、権利が保障されなければなりません。小さな意見にも注意が払われるべきです。それが神のもとの平等です。それぞれに働く主に注目し、みことばを聴きながら、心を合わせて新教会づくりに働きたく思います。 その時平等と公平、即ち天界がこの世に実現するのです。
2014年10月5日(日)牧師 國枝欣一
教会の庭は、建造当時土居米造牧師の時代には、聖書に出て来る植物を植え、塀にはつるバラが咲き、その他の所は芝生でした。隣家がまだ建っていなく日当りも良かったからで来た事です。それは教会の建設資金を寄附してくださった弁護士のコリンズ氏のアイデアでもありました。1974年野田雄三牧師が就任されてからは、その間隣りに家が建ち、ブロックの塀が建てられる事で景観も大きく変わりました。ツツジやさつきを寄附してくださる会員も居て、みどりの深い庭にしようとの野田牧師は考えておられました。椿、キンモクセイ、まてば椎、桜も植えられました。国枝牧師が就任するまでの5年間、無牧の時代がありました。その間庭の木々は大きく野放図に大きくなりました。それから20年間もうこれ以上樹木を植えられないくらいの庭の木を小さくまとめる努力をし続けてきました。
 今教会は災害に備え、安心して安全に礼拝が出来る様にと改善しようとその工事の直前に居ます。今までブロック塀に囲まれていましたが、安全のためにこれを撤去し、避難路も新たに確保しようと、軽いフェンスに代えます。庭がそれに伴って外から見える様になります。
 2年前佐藤 由美子さんの引っ越しに伴って自宅で育てていた鉢植えのイチジクを置けなくなったのでと頂きました。古い会員はそれを見て、昔の庭に思いを馳せているようです。
 教会の新しいイメージづくりに教会の庭も関係して来るでしょう。どのように庭を作って行くかも大きな課題です。聖書に出て来る植物を植えると言うアイデアには都市化の進んだ世田谷の建て込んだ場所には無理もあるでしょう。神社の森の様にするのも現実的ではありません。昔からあるレバノン杉もイチジクも大切にしながら、21世紀に働く教会にふさわしい、庭づくりを皆で考えたく思います。
2014年9月28日(日)牧師 國枝欣一
私たちの言動の全てには正当性が含まれていると言う考え方があります。私はこの考え方に賛成なのですが、一見不合理、不適切、不穏当と見える言動にも、正当性があるというのです。こう考えると幾つかの利点があります。相手を正確に理解しようという姿勢が、生まれてきます。相手にも正当性があると思えれば、相手を尊敬する気持ちがわいてきます。又不毛な争いを避ける事が出来ます。
 それは宗教的には、あなたも私も神様の子供、兄弟姉妹という事につながるでしょう。私たちは皆、事の大小はありますが、現状を変革して何かを実現したいと思っています。ところが、実際に表現されるそれ自身は妄想に近いとか、実現不可能とか、不適切と言った事が当てはまる事があります。しかしそれを実現したら、自分にどんなことが起こっているのか、TVを見る様に明確にイメージすると、更にその先に実現したかった事がある事に気づかされます。人は通常そこまで自覚していません。自覚していないにしても、そうした願いが必ず潜んでいるのです。そこに気づき、それが表現され、相手に理解されると事態は大きく変わることができます。
 そのヴィジョンを共有する事で私たちの中にある対立や争いは、和解や相互信頼へと導かれます。それをする私たちには、全く自分の努力で和解や相互理解をするとしか感じられないのですが、その時に主が私たちの間で働かれるのです。それこそスウェーデンボルグの言う「相補交流」なのです。
 教会は、今、震災に備え、安全と安心を持って伝道活動と信仰の維持が出来る様にと、改修計画を持ち、それを具体化しようとしています。しかしそこには数々の困難が横たわっています。その困難を克服する過程で、私たちの間にあったギクシャクが乗り越えられたのです。そこに私は主の働きを強く感じ感謝の念を深く感じました。
2014年9月21日(日)牧師 國枝欣一
9月6日(土)7日(日)は四谷の上智大学で日本スピリチュアルケア学会があり、私は土曜日は全日参加、日曜日は礼拝後午後から参加しました。全てが終わって経堂駅から教会に戻る途中、小さな女の子が不安そうな顔をして全速力で走って来るのに出会いました。教会近くの山下公園に入って行きます。そして小さな声で「お父さん、お父さん」と言っているのが聞こえました。
 その子に声をかけました。「どうしたの?」「お父さん。」「お父さんがどうしたの?」「いなくなちゃったの」「お父さんを探しているんだね。」「うん。」返事もそこそこに公園内にいる家族に目をやっています。しかしいない様子。うす暗くなり始めている夕暮れ時、このままにしておけないと感じました。「お家はどこ?」「あっち。」と指差すがはっきりしない。「お家に一度帰ってみようか?」全然その気は無い様子。「お父さん」を繰り返すだけ。「一緒に探そうか?」「うん。」今度は公園を出てユリの木公園を豪徳寺駅方面へ。二人で手をつないでしばらく歩く。「いない。」「うん、いないね。」を繰り返し。しばらくして教会まで戻って来たので、「おじちゃんの家ここ、ちょっと寄って行こうか。おまわりさんにお父さん探してもらおう。」と言って110番通報。
 しばらくして赤堤交番から警察官が来て無線でのやり取り。父親が経堂交番で迷子捜索依をしている事が判明。小さな女の子はおまわりさんの白い自転車に乗せられて経堂交番へと向かいました。
 小さな子が不安気に駈けて掛けて来るおり、何人もの大人とすれ違っていました。誰もその子に気づきません。都会の無関心を感じ、ぞっとしました。そして彼女が警察官に連れられて「バイバイ!」と言って去って行くのを見て、マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉を思い出していました。 
2014年9月14日(日)牧師 國枝欣一
今、手元に資料がないので私の記憶に頼るので不正確かもしれませんが、1986年に発表された論文に祈りの効果を調べた学術論文があります。サンフランシスコの心臓病の患者360余名を毎日祈ってもらうグループと今まで通りの処置を受けるグループに分けました。祈ってもらうグループは更に二つに分け、病院に距離的に近い人々に祈ってもらうグループとそうした配慮をしないグループに分けました。祈る人々はPCで北米全体に呼びかけました。
 その結果、患者のその後に、祈ってもらったグループとそうでないグループの間に統計学的に明らかな差が出たとの事でした。この論文の手法はその後詳しく調べられ正しさが証明されています。そこから明らかになった事は、確かに祈ってもらう事は効果があるという事です。又空間的な距離の差は関係ない。祈る事になれている人とそうでない人の間には差があるという事でした。
 3週間ほど前に「生かされて」イマキュレー・イリバキザ著PHP文庫を読みました。こちらは全く個人的なルワンダの民族差別に依る虐殺をどう生き延びたかという記録ですが、ここにも祈りの力が何れ程大きな力を持っていたかということが書かれています。片方は学術論文、他方は家族全員が殺されるような体験をした記録と全く異なった祈りについて書いてある本ですが、祈りの力の大きさに驚かされます。イマキュレーは祈る事に習熟した人だという事が分かります。       祈る事は、神との対話ですが、その対話を通して私たちの霊性を高める働きをします。
 「善き事は全て主から、悪しき事は全て自分から」という事を私たちは学んでいます。知っているだけでは何の役にも立ちません。自分の中から出てくる悪しき事を主に向かって祈る事を通して取り除いていただく時、私たちには不可能に思える事も、達成できるのです。祈る事に習熟しましょう。そのため毎日五つ感謝できる事を思い起こし、主に感謝する事からやってみませんか?そうする事で私たちの祈る力は増して行きます。
2014年9月7日(日)牧師 國枝欣一
最近、新しいいのちの誕生のニュースに触れる事がしばしばあります。うれしいことです。赤ちゃんや幼児の純真無垢さが周りの私たちの心をなごませてくれます。この純真無垢の力強さに驚かせられる事がしばしばです。私の近くにいるある家族の話です。知り合いの女性が中学生の時に彼女の父母は離婚をしました。彼女はずっと二人が一緒になって欲しいと願っていました。30代に入って彼女は結婚し、一人娘である彼女は、母親とともに生活を始める事になりました。母親と確執を抱える彼女の生活は厳しいものとなりました。
 ところが彼女に子どもが与えられた事に依って、先ず母親理解が深まり、二人の関係が改善され、父親もことあるごとに孫の顔を見に来る事が起こり、最近は父母がよりを戻すことができました。娘として長い間願っていた事が、小さい孫によって、実現したのです。私はここに幼子の持つ純真無垢の力強さの典型例を見ます。
 私たち新教会人に取ってこの「純真無垢」は大きな課題のひとつです。神に接する時の私たちの姿勢にこの「純真無垢」が必要とされるからです。「子ども達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供の様に神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない。」(マルコ10:14、15)と主は言われています。
 幼児の持つ純真無垢は無知に依る純真無垢ですが、そこにあるものは「愛」のみです。その愛は神の愛と同じです。私たちもみんなかっては子供でした。ですからみんな純真無垢の痕跡を残しているはずです。新しいいのちを教会に迎い入れつつ、私達の中にある純真無垢を育てて行きたいものです。先週は和田明咲子さんのFacebookを見ながらそんな事を思っていました。丈太郎君ありがとう。 
2014年8月31日(日)牧師 國枝欣一
このところ南アフリカのマンデラ大統領に関する本を読んでいると知人に話したところ、「生かされて」イマキュレー・イリバキザ著という本を紹介されました。ルワンダでの民族対立を生き延びた一人の女性が自分の体験を書いた本です。この本を通して自分は如何に世界の事を知っていないか、報道が如何にコントロールされているのか、知ろうと自分でしなければ真実は見えて来ないと強く思わされました。
 一月ほど前に朝日新聞の海外欄に小さくルワンダでの民族融和の式典が行われたと小さな記事で出ていました。それを読んでルワンダでの民族対立とそこで行われた100万にも及ぶ虐殺が行われていたという事を何れ程の人々が思い描けたでしょうか。
 彼女の家族も父母を始め、兄弟が、昨日まで仲良く隣人として生活していた人々に依って殺されています。殺人集団が襲って来た時に、彼女は僅か10cmほどの壁を隔てて、イマキュレーの居所を探している者の声を聞きました。フランス軍の駐屯地に隠れ家から逃れ保護されます。運良く国連高等弁務官事務所で職を得て働き始め、自分の村を見る機会が与えられます。家は焼け落ち、近所の人から父母や兄弟がどのように殺されたかを聴きます。彼女の心と感情は憎しみと怒りと復讐心でいっぱいでした。彼女は眠れず悶々とした日が続いたようです。それを彼女は神から私を離そうとしている悪魔の行為と感じたのです。
 彼女は祈りました。「私の悪魔の考えをお赦しください。神様私からこの苦しみを取り除き、心を清めてください。あなたの愛と赦しの力で私を満たしてください。あの人達もまたあなたの子どもなのです。どうか彼らを赦せる様に私を助けてください。」
 私はこの祈りに深く感動しました。悲しくはありましたが、清々しい空気が肺に流れ込んで来て心は静まったとあります。死ぬほど家族が恋しかったけれども、怒りは消えていましたとありました。  赦しとはこういう形でくるのだろうなと思いました。
2014年8月24日(日)牧師 國枝欣一
日本は世界で有数の豊かな国です。所得倍増計画、列島改造論というかっての政府のスローガンはそれなり成果を上げたと言えるでしょう。そして今は世界一の長寿大国になり、老人の人口に占める割合は年々増加しています。それに伴って医療費は増大し、年金の負担は若者に重くのしかかって来ています。経済的には豊かになったのにそれで私たちは幸せになれたのかというと、その実感に乏しいのが現実ではないでしょうか。
 40年前初めてバンクバーの老人ホームをを訪ねる機会が与えられました。活気あふれる豊かな市街地と老人施設の老人の生気のなさとの落差に驚かされました。経済的貧しさの克服よりある意味で深刻なのは、精神的貧しさの克服でしょう。個人主義のカナダにあって、18歳になると子供達は独立して行くのが一般的ですが、それに比較して老人は孤独になりがちです。日本にもそれが集中的に今起こっています。
 人間関係の貧しさは、その人の価値が否定されていることと同じです。自分が生きている事に価値を見出せなくなっているのです。生産性有無がその人の価値を決める(Doing)時代は、人間のもう一方の価値、存在する事(Being)の価値を否定してしまいます。
 平均寿命の世界一の日本では誰もが認知症になる可能性があります。こうなれば私たちは誰かのお世話にならなければなりませんが、そこに人間関係の貧しさが入り込んでくると、孤独の死を迎えなければなりません。
 私たちは、神の似姿としてこの世に送り出されている訳ですから、生かされている間、そこには役立ちがある訳です。それを見出せる様になるためには、私たちが主とつながっていなくてはなりません。生活の中に主の働きを見出せる様にならなければなりません。
2014年7月27日(日)牧師 國枝欣一
19世紀に入ってフロイドが「私たちは無意識に支配されている。意識は氷山の一角にすぎない。」と言いました。現代の脳生理学者は、意識する部分は3%にすぎないと言います。神から与えられている能力にごく僅かしか私たちは使っていない事になります。そして現代の教育はこの3%にのみ力を入れているのが実情です。
 日本人の新教会人は、多くの場合、その教えをスウェーデンボルグの著作から学びます。教えを著作から学び、知識として蓄えます。教義を良く知り、著作を何れ程読んだかが基準になっている人がいます。小学生の時代から今日に至るまで知識の絶対量が優劣を決める社会にあっては、それも致し方がないという側面もあります。
 以前自分は「天界の秘儀」28巻を2回読んだと誇っている方にお会いしました。しかし彼はこの世にあって人間関係で苦労していました。お話をしていると著作からの引用がぽんぽん飛び出してきます。彼は知っている事を誇っていますが、それを自分が誤謬化している事に気づきません。スウェーデンボルグはその著作の中で繰り返し信仰の教義を誤謬化する危険性を説いていますが、それが自分に当てはまると捉えていないのです。
 スウェーデンボルグという人は実にバランスの良い人でした。人望も厚く、祖国の発展を願い、そのために働きもした人です。晩年は「真の基督教」を書きながら自国の正しい基督教理解を願っていました。同時にロンドンの生活では散歩に出る時には、何時もお菓子をコートのポケットに入れて、途中で出会う子供たちに話しかけ、お菓子をあげる事を楽しみにするようなおじいさんでもありました。謙虚で肩肘を張らない老人であったようです。ここから分かる事は、彼は自説を自らのものとせず、誇りもせず、身の丈にあった生活をしていたという事です。
 彼にあっては幼少期から無意識が大いに開発されたと言えるでしょう。彼が55歳を過ぎて今までの仕事を辞め、聖書を研究し、み言葉を聴く事に徹し、人の生き方を提案し続けたその生き方に、善と真理の受け皿としての人の生き方を教えられる様に感じます。善+真理=行為ということから彼の生活を見て行くと、如何に彼の書いている事が生活と密接なつながりを持っているかという事が分かります。私たちも自分の無意識に教義を取り込まなければ、—それは即ち行為になって現れてくるのですが、— 本物になりません。教会生活は自分の行為を変えることで、天界を築き上げる実践の場なのです。礼拝に来てください。共に天界造りをしましょう。
2014年7月20日(日)牧師 國枝欣一
熊本の研修最後の夜、参加者全員で会食をしました。その中にアフリカのチャドで、看護師として働いていたシスターが居ました。またイタリアで学んだことのある聖心病院のチャプレンもいてくださり、とても話が豊かな会食となりました。一つはヴァカンスの話であり、もう一つは何でも自分でする人は最も貧しい人という話でした。
 二つは共に関係している話だったのですが、ヴァカンスの取れない人々のために献金するという風習がイタリアやフランスにはあるというのです。そうした献金を集める機関があり、そのお金で貧しい家庭の子供をヴァカンスに招待するというのです。この背景には、私たち日本人との労働観の違いがある様に思いました。掃除洗濯を始め家事一般を使用人を雇って任せるという事は、貧しい人々に仕事を与える事で、何でも自分がするという事は、貧しい人々の仕事を奪ってしまう事になるのだという訳です。歴史的にはヨーロッパ文明は貴族に依る収奪の上に成り立っているということがありますが、収奪した上で施す、恵みを与えるという考え方があるのです。またエデンの園を追放されて額に汗する仕事は神から罰として与えられているものなので、ヴァカンスは罰からの解放を意味します。これは一方で奴隷制度を肯定する有力な根拠でした。そうした制度がなければ労働という罰から逃れる事が出来なかったからです。フランスの植民地であったチャドにもこうした風習があって、看護師であるシスターは何でも自分でやろうとするたびに、他の同僚から止められたと言っていました。
 労働観ひとつを取ってもこのように日本人とヨーロッパの人は大きく違い、それはスピリチュアルケアを考え実践する場面でも大きく異なってきます。と同時にその背後にある価値観を学ぼうとすると、そこには深く考えさせられるものも見いだします。チャプレンはこんな事も言っていました。自分が忙しくしていると相談したい人が遠慮してしまう。余裕があって暇そうにしていると、本当に相談したい人が来てくれたり声をかけてくれるのです。
 深く考えさせられました。
2014年7月13日(日)牧師 國枝欣一
私たちは皆それぞれの価値観を持っています。それぞれの価値観を持っていながら、それがどんな内容を持ち、どのようにその価値観が生活の中ではっきり捉えられていません。それほど自分の価値観に慣れ親しんでいるので、あえて問うという事をしません。それが自分のものとなったときはいつなのかも知りません。
 一般的には、自我が発達する前、すなわち10才くらいまでの経験がその人の価値観の基礎になっているといわれています。自我とは自分というものに対する意識ですから、意識が発達してくると、意識が壁となって、無意識の領域にそれ以上のものは入りにくくなります。意識の発達が未熟な時代は、すべての事をそのまま受け入れます。従って伝統的な価値観や、家族の中の伝統はそのまま刷り込まれ、その人の価値観の土台となります。
 それは家族の伝統ばかりではなく、一地方、国、あるいは民族の価値観というような広がりを持ちます。宗教はその点で価値観を構成する重要な要素となります。歴史的には宗教が文化的侵略になった例はいくらでもあります。しかしここに意識的であったのはスウェーデンボルグであり、その後継者たちでした。彼らは、新しい人々に教えを伝えsる時、その人を育んだ伝統や文化を否定せず、そこに接ぎ木をするという表現を使いました。伝統や文化に敬意を表するのです。決して相手の文化や、伝統、宗教を否定しないのです。
 東京新教会では、最近、仏教や、神道、天皇制という事が良く問題になっています。私たち日本人の新教会のものは特に、仏教や神道、それと密接につながっている天皇制にもっと詳しくなる必要がある様に思います。それらが私たちの伝統になり価値観を構成しているのです。  その出所を自らに問い、その意味を理解した時、私たちは真理をものに出来、接ぎ木した親の木としっかり結びつく事が出来るのです。そこに価値の明確化が起こります。
 思い込みで批判したり、排除する事ではなく、相手を尊敬心を持って理解しようと思えば、違いも明確になるでしょうが、その目指しているものの共通性も多く発見できると思います。その尊敬心は神の愛につながり、理解は神の真理につながります。 
2014年7月6日(日)牧師 國枝欣一
先週は、インビクタスという映画を探して見つからなかった。その代わりに映画の元となった本を見つけて読んだという話をしました。ところが後記を書いたその夜、目的の映画は見つける事が出来ませんでしたが、"No Easy Walk to Freedom"というネルソン マンデラの自伝を映画化した映画を見つけて、早速見に行きました。
 大統領になったマンデラは、今まで抑圧され、理不尽な扱いを受けていた、白人に憎しみを持つ黒人過激集団をなだめなければなりませんでした。又同時に黒人からの復讐を恐れる白人に安心感を与えなければなりませんでした。両方とも達成不可能と思えるような困難な課題です。
 しかしマンデラにはこれ以外に方法はないとはっきり分かっていました。白人に安心感がなければ、軍事力に圧倒的に勝る彼らの恐怖心に依って黒人の多くの命が奪われるという事ははっきりしていました。しかし人口比で圧倒的に勝る黒人を皆殺しには出来ません。白人にも黒人にも勝利という事はありません。それが現実だと彼にははっきり分かっていました。
 「敵を愛する」という事は、抽象的思考でも、信仰課題でもありませんでした。「あなたたちの怒りはよくわかります。でも新しい南アフリカを作ろうとするならば、嫌いな人たちとも協力する覚悟が必要です。」とマンデラは繰り返し言っています。現実的な課題、国民の生活の問題なのです。愛を持って真理に近づく。私にはそれがマンデラの信仰のように思えました。
 この真理にはっきりと目覚めていた彼は、大統領就任直後に、政府に関わるすべての職員(掃除夫、庭師に至るまで)を集めて、全員に「残ってほしい。皆さんには、政府を運営する知識と経験があります。私はそれを必要としています。助けてください。」と要請しました。前政権時代の職員は一人も解雇されなかったのです。彼はアフリカーナ、カラード、インド人、黒人という差別をなくして、南アフリカ人として一つの国家を作る事を夢見ているのです。それは刑務所に居た頃から持ち続けた彼の夢でした。
 私たち新教会人にもこの話はとても有効です。相手への尊敬心を持って、新教会を作って行くという事です。それぞれに役立ちがあります。その役立ちを果たす事が私たちの使命です。必要でない人は居ません。排除の論理は、新教会の理念からかけ離れています。相手を理解しつつ共に歩む時、主はその道がどんなに険しくとも道を指し示してくださいます。
2014年6月29日(日)牧師 國枝欣一
インビクタスとはラテン語で「負けない」「不屈」等を意味する言葉です。これは、ネルソン・マンデラが大統領として差別を撤廃して、国を一つにまとめる過程を映画化した映画の題名でもあります。マンデラは27年間も獄中生活をした人でした。出獄し、政権を担った時、多くの白人南ア人(アフリカーナ)は、内戦状態になると恐れ、国外に出たと伝えられています。
 この映画を上映しているところはないかと探しましたが、見つかりませんでした。そこでこの映画の元になった本を探したところ経堂の図書館にありました。早速借りて一気に読みました。何に引きつけられたのか。それはマンデラのものの見方であり、情愛の動き方です。
 2.5x2mの独房に17年間入れられ、会えるのはアフリカーナの看守2人だけ。そこに180cmのマンデラは閉じ込められ、ゴザの床に古びた毛布3枚で冬も過ごしたそうです。彼は敵であるアフリカーナを理解するためにオランダやイギリスから移住して来て定住した人々の歴史を学び、どうやったら抑圧者であるこの看守と尊敬し合える関係を築けるようになれかる自分に問い、実践します。
 この「自分に問い」、「実践する」ということが、マンデラの内的成長に大きく寄与したように感じます。世の中には自己啓発書が沢山出ていますが、これらを読んで人が変わった、成長した、それによって社会が変わった等という話を聞いたことがありません。獄中で彼はギリシャ神話、シェイクスピア等を読んだという話は出てきますが、自己啓発書を読んだという記述は出てきませんでした。
 読んで知識を貯えるということは、自分の意識に注目することですが、私たちの生活は意識によるものは3%。97%は無意識に支配されているといわれます。彼は自分の無意識に働きかけていたのです。「自分に問う」ということは脳に空白をつくり出します。すると脳はその空白を埋めようと眠っていても働きます。どうしたら敵であるアフリカーナを尊敬できるようになるか、彼は二人の看守にやってみます。やってみるということは体験です。体験は頭の理解ではありません。身に付いたものとなります。先週のマザーテレサの言葉を思い出します。
2014年6月22日(日)牧師 國枝欣一
ホライズンセンターの講座の中に「人生の振り返り」という講座があります。参加者が自分の人生を深く赤裸に見直しながら、自分の魂の痛みから解放される体験を通して、他者の魂の痛みに気づくために意図されている講座です。42才の女性が講座の結びに書いてくれたマザーテレサの言葉です。とっても感動的なので皆さんとともにシェアしたいとおもいます。
「あなたの中の最良のものを」
人は不合理、非倫理、利己的です。   
 気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
 気にすることなく、善をおこないなさい
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう
 気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
 気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
 気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
 気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
 気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい
 たとえそれが十分でなくても
 気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです

どんな感想を持たれますか?

2014年6月15日(日)牧師 國枝欣一
生活の中で車の運転やパソコンの入力等の様々な行動を身につけると、無意識で出来るようになります。しかし一方で私たちが新しい事態に直面した時に、この同じ行動や習慣が私たちの行動をブロックする要因として働く場合があります。
 このブロックは、過去の体験・経験からくるプログラムの自動反応によって引き起こされると考えられます。このプログラムの正体は、行動や思考の習慣や信念であり、私たちのイメージだと心理学者は言います。そして習慣・信念で私たちの考えや行動は規制されていると言います。それがメンタルブロックです。
 教会の成長、発展を考える時にもこのメンタルブロックが問題になることがあります。牧師が交代した時、礼拝のプログラムが変わった時、宣教方針を変える時等、状況に変化が生じた時、今までの伝統を重んじる人々はその変化をなかなか受け入れられない事があります。
 これを受け入れられるようになるためには、習慣・信念と言ったものを変える事で、考えや行動をかえ、結果として新しい状況を受け入れられるようになります。賜物として与えられている私たちの能力を最大限生かすためには、このメンタルブロックを持っている事を自覚し、自分の習慣や信念、価値観と言ったものを再吟味してみる事が肝要でしょう。
 具体的には、新しい提案があった時、まずそれを試して見る事によって、「想像していたよりずっと良い」とか、「まあなんとかなじめる」という事によって、私たちは成長できるのではないでしょうか。成長は変化する事であり、変化する事は手放す事でもあります。手放すには痛みが伴います。
 批判的な思いに駆られたり、無理無理!と内なる声がわき起こってくる時に、ちょっと深呼吸をして、自分のメンタルブロックになっているものは何なのか、振り返ってみましょう。そうすると案外問題は自分の中にあって、相手にあるのではないという事にきづけることも、ままあるのではないでしょうか。こうする事で私たちは周りの人と繋がり、主の働きを身近に感じられると思います。
2014年6月8日(日)牧師 國枝欣一
アンカリング・錨おろしという言葉は耳新しい言葉かも知れません。錨は船を一点に、係留するためのものですが、これは視点を変えると、パブロフの条件反射と同じものです。パブロフの条件反射という概念は、空腹の犬にえさをやる時に鐘を鳴らすというものです。これを繰り返すことで犬は鐘の音を聞くだけで唾液を出すようになります。これを簡単に表記すれば「刺激(鐘を鳴らす)と反応(唾液をながす)」ということが出来るでしょう。
 この「刺激と反応」は人間にも当てはまります。問題を抱えている人の多くは、このこの条件反射、「刺激と反応」が、問題を引き起こします。嫌だ、不安だ、怖いという強い感情が、ある事柄に直面する度に起きます。このような「刺激(ある事柄)と反応(強い負の感情)」をアンカリングといいます。錨のように人をそこにつなぎ止めてしまうのです。
 しかし、このアンカーと呼ばれる「刺激と反応」が良い方に定着するとどうでしょう。職場に行くと楽しいという人がいればその人は仕事を楽しみ、業績も上がるでしょう。先生の好きな子供は、学校生活を楽しむでしょうし、学びも進むでしょう。難しい算数の問題を解きヤッター!という達成感を持ち、それを繰り返す中でその子供は算数好きになるでしょう。これらを反対方向から使い、まず過去の成功体験を思い出し、その時の感情を思い起こし、それを感じたときに、2本指で肩を押すのです。過去の感情を肩にアンカリングするのです。すると必要な時に肩を2本指で触る(刺激)と、やる気という反応が起こるのです。これをアンカリングといいます。
 みことばを思い出し、それを実践できて心地よかった経験を思い出すことが出来れば、それを繰り返し思い起こすことによって、今心地よくなり、善なることをすることが、苦でなくなります。はじめはみことばの真理を思い出し,真理からしている内に、善から良いことを行うようになるというスウェーデンボルグの言葉は、心理学的にはアンカリング・錨降ろしということが出来ると思います。喜びの体験、成功体験は私たちの霊が天使と交わる機会ををもたらすとも言えるかと思います。 
2014年6月1日(日)牧師 國枝欣一
これは高校の生物で習うことですが、簡単に言えば一人の赤ん坊がこの世に生まれてくるまでにたどる道筋が、生物の進化の過程をなぞるようにして生まれてくるということです。すべての赤ちゃんは、魚類の時代、爬虫類の時代、猿の時代を経て、人間の赤ん坊として生まれてくるということを指した言葉です。
 人間の脳は大きく、特に大脳皮質と言われる領域が発達しているのが特徴的です。その大脳と脊髄を結ぶ連絡通路となる部分を脳幹と言いますが、同時にその場所は「高次な自律的な諸機能の中核をなす」と百科事典にあります。この脳幹は生物の進化の過程では、爬虫類の時代に既に出来ていたという古い脳だそうです。
 素人考えですが、信仰というものは、まず大脳皮質で知的に教義を学びます。その教義が生活化するということは、行為となることですが、行為になるためには、この脳幹にまで、教えが蓄えられる必要あります。脳幹を活性化するための心理学的方法に自律訓練法というのがあります。これは医療の現場でもスポーツの現場でも使われています。自然に新教会流の教義の生活化が出来るようになるというのは、主ならそうするだろうと想像し、誰かのためにすることが、心地よくなる時に、脳幹が刺激され、そこに定着するということになります。
 みことばから学んだことを、自分に即してイメージできるようになるとき、みことばは単なる知識から、私の行為になってきます。繰り返しこのイメージを描けるようになると、それは自然に行為となって現れ、生活化するのです。生活化したとき、私たちは霊的になり、天使とともにいる、天界に属するということになるのだろうと思います。
2014年5月25日(日)牧師 國枝欣一
今となってはもう随分昔の話になりますが、ほら吹きクレイというボクシングのヘビー級チャンピオンがいました。試合の前から「俺が世界1!」とか相手を「○ラウンドまでにノックアウトする!」とか宣言して、相手を威嚇し、マスコミは大いにそれを取り上げて、あおってもいました。様々な名言を残した人であり、実際に強い選手でもありました。
 最近の脳の研究が進み、どのように脳を働かせると、どのような成果が上がったり、上がらなかったりすることが分かってきて、その研究の成果が、医学やスポーツの世界で応用されるようになってきています。それがビジネスの分野でも有効ということから最近ではコーチングという手法が使われるようになってきて、日本でも流行しています。
 確かに上手に自分の脳をごまかすことによって、信じられないくらいの力が発揮されます。先日40才の人と70才の私が腕相撲をしました。相手になかなか勝てません。しかし「勝つ!」と宣言して腕相撲をすると本当に勝てました。ほら吹きクレイは、ほらとしか思えないようなことを言って自分を鼓舞、脳をごまかし、力を発揮していたのです。
 こうしたことが理論化され、手法が開発されると、人々は物質主義、現世利益的になりがちです。しかしこの理論にはスピリチュアルな価値観が背後にあります。新しい商売や事業を始める、家を建てる、独立するという希望、計画の背後にある目的は何かと問うているのです。
 目的の中には、原因も、結果も含まれているというのはスウェデンボルグの考え方です。自分の家を持つという結果は、家族を幸せにしたいという原因を含んでいるでしでしょう。しかしその先の目的が重要です。これこそ神から与えられているもので、その人の役立ちです。その目的を善なることに照準を合わせることが出来ると、具体的なことも変化するということです。
 有言実行というとき、結果をはっきり描くことが出来ることが必要です。何がその結果を必要としているか、その原因も明白し、目的が主の摂理に合致するとき、その人の夢は実現するということです。私たちは有言実行の裏にある主との結びつきをその目的としているのだということを明確にしたいと思います。
2014年5月18日(日)牧師 國枝欣一
痛みを考える時、そこには様々な痛みのある事に気づきます。それらを大別してみると①身体的痛み②社会的痛み③心理的痛み④霊的痛みに分ける事が出来ます。この分類は、世界保健機構(WHO)がガン患者の権利として①〜④からの解放をうたったものです。
 ①身体的痛みとは、頭が痛いとか、足が浮腫むとか、下痢をしてお腹が痛いといった事です。②社会的な痛みとは家柄、学歴等からくる差別とか、闘病生活に関係する経済的な困難などをいいます。③心理的な痛みとは家族と正直に話せないとか、患者自身の将来への不安などです。④霊的な痛みとは人道に反した行為をした事を悔いるとか、誰かに謝りたいとか、その人の存在を脅かすような痛みです。
 霊的痛みと心理的痛みは区別する事が難しいこともありますが、私たちは誰でもこうした痛みを持つ存在です。ところが「痛み」は悪であると考えて、何でもこの痛みを取る、消す事が大切と思う人々がいます。痛いと鎮痛剤を使う訳ですが、痛みには私たちの霊的成長を促すものがたくさんあります。という事は「痛み」を否定したり、無視したりしないで、肯定的にとらえようということです。私が一緒に働いているキッペス神父は以下のように言います。
 「生きる事は、成長すること。成長する事は、変わる事。変わる事は、苦しむ事。苦しむ事は成長の現れである。」    
 無視したり、否定したりするのではなくそれらをきちんと見る、そこに私たちの成長があるというのです。
 私たちが苦しむという事は、その苦しみがあるという事を認めていることです。新教会的に言えば、試練の時です。私たちはこの試練に意味があることを知っています。そして試練はいつか終わると教えられています。終わった時に平安が与えられると希望が示されています。
 苦しむことが「痛み」であると気づき、そこに私たちの霊的、心理的、社会的成長の鍵があると分かれば、教会に集う私たちの役立ちは自ずと明確になるように感じます。
2014年5月11日(日)牧師 國枝欣一
聖書全体は、主の一生を表現したものであり、同時に人間の霊的成長を取り扱った書物である。そのように読み込むために必要なのが、霊的な解釈であり、その霊的解釈は、スウェーデンボルグの著作を手がかりに行うというのが私たちの考え方です。
 イエスさまの空の墓を最初に発見したのは、主の近くにいた女性たちでした。彼女たちの「主への愛」がそうさせたのです。その時彼女たちが出会ったのは天使であり、復活された主でした。それに引き続き、ユダヤ教徒の追求を恐れていたお弟子たちは、鍵をかけた隠れ家で、復活の主に出会います。
 女性たちが天使に出会ったこと、マグダラのマリアが主に出会ったこと、隠れ家でお弟子たちが主に出会ったという聖書の記述は何を意味しているのでしょうか。マグダラのマリアを始め、主の復活に直面した女性たちは恐れを感じたとあります。見えないものを見、通常聞けない声を聞く、こうした聖なる体験をした時に、感ずるのが恐れです。
 このとき、彼らに起こっていたことは、自然のもの見、自然の音を聞く肉体の目や耳だけでなく、霊的なものをとらえる目と耳が与えられたということなのです。この霊的な目や耳は、主を愛する、主の言動に注意を向け、主を何時も思うという生活態度から生まれてくるものです。
 そこに私たちの霊的な成長のヒントもあります。主を何時も思うことは、主を私たちの心の中にお招きすることです。お招きする神殿、教会を用意することです。最小の単位の教会を建てることです。そして二人三人と集まる時に外的、自然的教会も設立されてゆきます。その基本は常に主を思う気持ちであり、「主への愛」です。
 東京新教会はその点で天界の表象です。表象ですが実態ではありません。不足の部分が多々あります。同時に与えられていることもたくさんあります。その恵みに感謝しつつ、不足を補う努力をすることで、本当の意味で天界を表象できるように成長を果たして行くことができます。その努力が私たちの霊的成長を促します。   
2014年4月27日(日)牧師 國枝欣一
私たちは言葉を使って人間関係を作って行きます。ところが使う言語は同じであっても、その言葉に乗せる意味は人によって様々です。例えばAB二人の人が「Cさんって嫌な人!」と言ったとしても、それぞれの体験は全く異なるということはよくあります。
 言葉を使ってコミュニケーションをはかるとき、避けられない誤解が良くおきます。これは話し手が悪いのでもなく、聞き手が悪いのでもありません。言葉を使う時に起きる必然的なことなのです。というのは私たちが言葉を使う時にはある過去の体験をもとにして話す訳ですが、その体験を全部話す訳ではありません。そこには①「省略」ということが起こりまます。また体験したことは事実であっても、それを意味付けする時に②「歪曲」ということが起こります。意味付けにはその人の信条や価値観が影響します。「歪曲」は善意悪意に関係なくおこります。そして次に③「一般化」ということが起こります。誰にでも理解しやすくするためです。この ①「省略」、②「歪曲」、③「一般化」を避けることが相互理解を深め、より親密な関係を作るために肝要です。
 どうしたらこの①②③を避けてより良い人間関係を作れるでしょうか。そのために必要なことは、まず私の聞いたことは相手の理解と同じだろうか、相手の行って居ることを間違って理解したかもしれないと思うことです。そして「それってどういうこと?」と訊いてみることです。それによって聞き手は相手の言っているように理解することができます。また話し手は自分の体験を一般化せずに具体的に話すことです。
 こうした努力、習慣は、神である主の意向を聞く時にもとても大切なことです。私たちの思いをはるかに超えて主の意志は働いているからです。自分の思い込みの中には主は働いていないのです。だからより一層私たちは真剣にみ言葉を聴く努力を求められているのです。
2014年4月20日(日)牧師 國枝欣一
イースター(復活祭)はいよいよ来週です。イースターはもちろん主の復活を祝うお祭りですが、歴史的にはゲルマン民族による春の祭りと混交することによって今日まで伝えられたとも言われています。しかしキリストの復活を祝うこの祭りは教会暦の中で最も古いもので紀元50年代には既にこの祭りが行われていたということがパウロの手紙(Iコリ15:1〜7)から推測することができます。  
春はいのちの再生・復活の季節です。教会の庭の春は紅梅が咲くことから始まります。紅梅の後、白梅が続き、椿3種が花を持ち始めます。そのうち木いちご、山吹、グミと言った野生種が続きます。木の下に置いてある春蘭が花を持ち始めます。命の息吹を感じます。主の復活はいのちの復活です。私たちのいのちは私たちの愛の傾向です。この愛の傾向を知って吟味し、そこからはなれる時、私たちは新しい生をいきることができるのです。
受難週はこの自分自身の愛の傾向を深く見つめる期間です。場合によってはそれは自分の人生を振り返るということになるかもしれません。これらはみんな私たちの記憶です。私たちの記憶というものは過去の事実とは違います。記憶しやすいように編集されたものです。
私たちはこの記憶に縛られています。よい記憶であれば、それは私たちの人生を充実させるものとなりますが、苦しい嫌な記憶であれば私たちの人生を困難なものにします。ここから離れることでいのちの再生・復活を経験できます。ホライズンのワークショップ、講座はそれを目指した上で、さらに人々に奉仕する生活を実現します。
教会ではそれがキリストの復活を通して可能になることを学びます。学んだことを周りの人々へ伝えることを意図しています。私たちが復活を通して生かされていることを周りに伝えましょう。
2014年4月13日(日)牧師 國枝欣一
私たちは多かれ少なかれ悩みを抱えています。悩みは私たちを困難に追い込みます。気になって仕方がありません。この「気になる」ということがその人の愛の傾向を示しています。それがどうして愛なのかといぶかしく思う方もおられると思います。なぜならば心をより多く占めるものがその人の愛だからです。  
犬を大切にしている人の犬を愛犬といいます。飼い主がその犬を愛しているからです。自分の容姿を気にしている人はダイエットをしたり衣類の柄や形をよりたくさん気にします。理想の容姿でないにしてもそのことがその人の注意を引きつけるのです。誰かを愛するということはその人のことをより多く気にすることです。ですから悩むということは、その件や人に関してより多くのエネルギーを使うことですからその人の愛の傾向という訳です。この愛の傾向は悪魔的、地獄的なものと、天使的、天国的ものを同時に含みます。
ということで、嫌だ嫌だと思いつつ、実は私たちはそこへ引きつけられてしまっているのが悩みを持つ私たちだと言えると思います。だからスウェーデンボルグは悪を避けるようにと勧めるのです。悪を避ける方法の一つとして、体をゆったりとして楽な呼吸をし、吐く時に「それでいいのです。」と繰り返し言うことによって楽になれます。やってみてください。
馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。実は悩んでいる時は何とかしようと努力している時でもあるのです。そういう自分を認めることは自分の中に働いてくださっている神を認めることでもあるのです。
2014年4月6日(日)牧師 國枝欣一
「我」を手放すことは容易ではありません。その「我」を手放せないと怒りは手放せません。「我」は私達の様々なところに潜んでいて、それが刺激されると怒りが湧き起こってくるように感じます。「我」は注目されることを望んでいます。重んじられることを望んでいます。先ず愛されることを望んでいます。相手を従えることを望んでいます。
富と力を持つと、それを最大限に動かして更に富と力を増し加えようとします。そしてそれを失わせるような力に対して敏感になり、何とかして自分の得た富と富を産む手立てを子孫に残そうとします。しかしそれらを達成しても満足しません。愛情に関しても同じです。親から愛されてないと感じた子供は親が自分を愛していない証拠を集めようとします。無理な要求をしてそれを受け入れてくれないと、それを親が愛してくれない証拠とします。長じて大人になっても次々異なった相手と同棲し、愛情を求めようとします。私達の行動の背景には、自分の思想、価値観などの思い込みの壁があり、そこから自由になれないのです。
「我」を手放すために役立つのはスウェーデンボルグの繰り返し述べている「すべて悪しきことは自分から、すべて善きことは主から」という教えです。はじめはそれを知識として知って、自分の悪しき願望、欲求、意図等を抑えようと心掛けることです。或はそれらばかり考えてしまうことから離れることです。離れることは容易ではないかも知れません。それが私の愛の傾向であり、私の霊の状態、私自身であるからです。それでもそれを知り、実行する中で、私達の霊の状態は確実に変化成長します。
はじめは自分の選択ですが、そのうちその選択が無意識になります。無意識になった時、私達はそれが正しいという真理から動いているのではなく、善なることすなわち真理を愛する意志から動いていることになります。その時私達は「我」を手放せたといえるのでしょう。
2014年3月30日(日)牧師 國枝欣一
先週は一日五つの感謝をすることに付いて書きました。感謝する心は周りを注意深く見ることから始まるような気がします。なぜならばそうしないとみんな当たり前になってしまうからです。当たり前の世界には「もっともっと」と言う欲求が湧いてきます。もっと賃金が欲しい、今より良い家に住みたい。良い自動車に乗り換えたい、もっと愛して欲しい等等。このような目標を持つことは人生を豊かにする面もあります。
 しかしそれらを達成しても満足しません。私達は自然的である限りこの欲望を抑えることが出来ません。今あることに感謝する生活は霊的、スピリチュアルな生活です。信仰は生活であるといったスウェーデンボルグは霊的な生活を送った人です。
 一方怒りは誰にもあるものです。不満の底にもよく見つめると怒りがあります。恨む心の底にも怒りがあります。欲しいという心の底にも怒りが隠れています。悲しみの底にも怒りがあります。私達の生活を振り返ると様々なところに怒りが隠れています。意地悪をされた時背後には怒りがありますが、この試練にはどんな意味があるのかを考えて見ましょう。自分がもっと強くなるため意地悪を経験しているとすれば、それは感謝なことになります。何か得られない時それゆえに怒るとすれば、満足することを覚えるためかもしれません。そうすると意地悪した相手に感謝の念が湧きます。手に入れられない何かがあるとするならばその状況を受け入れることで、感謝なことがあることに気づきます。
 怒りは「我」から出てきます。感謝することは「我」を明け渡すことになります。すると不思議なことが起こります。自分が軽くなると同時に状況が変わってくることが良く起こります。その時私達は霊的に成長し、毎日をより楽しく生きることが出来るようになります。不思議なことです。
2014年3月23日(日)牧師 國枝欣一
一日五つの感謝をすることにしています。一日が終わるところで今日一日を振り返り感謝することを思い出し、ノートに書き、それぞれをDVDを見るようにはっきりと再現するように思い出します。簡単な作業ですが続けることが難しいです。時々抜けてしまうことがあります。忘れる時は何かに追われている時です。原稿書き、研修の宿題、一日の予定が終わらない、講義準備、家族の用事に急かされている等々。
 現代人の私達は忙しく生活をしています。 何時も何かに急かされているようです。現代人の私も例外では有りません。朝顔を洗う、男性だったら髭を剃るなどは習慣になっているでしょうが、それらはいちいち考えていません。殆ど無意識の行為です。一日の90%は無意識に支配されているというデーターもあります。
 また、脳は感謝の念を感じて、それを相手に伝えると自分が心地良くなります。その理由は、脳は自分がしていることと相手にしていること区別できないからと言うことだそうです。大脳生理学ではそんなこともわかって来ているのだそうです。そんなことを知らなくても人の良いところに気づいたり、それを褒めるという形で表現すると人間関係が良くなることは経験的に分かっていることです。
 しかし、私達はどうも相手の悪いところに目が向き、そこが気になります。気になると気分は悪くなり、イラついてきます。イラついている自分はその価値にしがみついているのです。実はそれが私の愛の傾向です。それを自分自身と言ってもいいでしょう。これを手放すための練習が一日五つの感謝を捜すことなのです。捜してそれを思い起こして視覚化して眠りに付きます。感謝することで自我を手放しやすくなるというのです。2週間が過ぎました。もう少し続けるつもりです。にこやかになれるかな。楽しみです。
2014年3月16日(日)牧師 國枝欣一
心理学では時々聞く・聴く・訊くの3種類の「きく」が問題となります。聞くは聞こえてくるものを聞く、聴くは一生懸命聴く、訊くは分からないことを尋ねるということです。ところが霊的に「きく」ということもあります。みことばに「きく」時にも上記三種の「きく」は対応しています。
 みことばに「きく」ということは、物理的には聖書を視覚を通して読むということですが、それだけでは十分ではありません。その内的意味、霊的意味を把握して、自分にとってはこれはどういう意味かと考えてみることです。ところがこれでも充分ではありません。聖書に詳しくなり、霊的な意味がわかっても、それを単に知っているだけでは何の役にも立ちません。「知ってるよ」というだけでそれが行動に結びついていないからです。
  「知っているよ」が「しているよ」「できるよ」になるためには私達の意志に流れてくる神の愛をたくさん受けなければなりません。脳の働きとしてみると「知ってるよ」は大脳皮質という新しい脳の作用で、これが「しているよ」「できるよ」のレベルになると古い脳の部分大脳辺縁系、そしてその下の脳幹と言う最も古い脳の作用になってきます。脳幹の働きは呼吸とか代謝といった生命をつかさどる部分です。ここにはその人の愛が働いているのです。
 みことばに聴くと言う時はこの脳幹が働くような聴き方をしなければなりません。知識の絶対量が問題ではなく、神の愛に触れて体が温かくなり、生き生きして来て、生かされていることが感謝になり、今までの囚われから解放されます。このように聖書を読むということを共にしたいと思います。また今日一日感謝なことがいくつあったか思い起こすことも私達の霊的成長のために重要なことです。それが習慣化したときに実は脳幹が開かれ霊的世界が身近なものとなります。ぜひやってみましょう。
2014年3月9日(日)牧師 國枝欣一
「塞翁が馬」と言う諺をお聞きになったことがあると思います。辺境の砦に住んでいた翁の馬が逃げたけど、後になると駿馬を連れて帰って来た。また息子が落馬骨折したたが、そのために兵士にならずに済んで命を永らえたと言う話で、人生の吉凶、災い、幸せは予測できないと言う諺です。
 先週新教会員である奥様を亡くされた80代半ばのご主人宅を訪問させていただきました。学徒動員で山形から横須賀に赴任、過酷な労働が原因で肺結核となり、帰郷、農業をしながら、教員となります。敗戦後農地解放がGHQの指導の下進められますが、ご長男がまだ復員されていなかったために農地を手放さなければならなかったところを彼が居たために財産を守ることが出来ました。一方教員としての働きが評価され東京に新しい任地を得、実践と研究の場が与えられました。以来定年まで実践と研究を両立させ、スイスの教育学者ペスタロッチの研究者しても世界的に評価される学者となりました。
 定年になってこれからは教育三昧の生活をと思っていたら癌が発見され胃を3分の2切除、てっきり自分は妻に看取られて先に行くと思ってましたが、逆くとなりましたと言って笑っておられました。80才を過ぎてから娘さんに炊飯器や洗濯機の使い方を教えてもらい、アルツハイマーの奥様の看護を看護する。それがどれほど大変だったか容易に想像できますが、彼の笑いにはやりきったという満足感が漂っていました。そこには東北人の粘り強さも感じましたが、同時に彼の研究テーマであるペスタロッチの子供に対する愛が昇華された形でこの老研究者に宿っていると感じました。その昇華された愛は神の愛で、主がこの老学者を深く愛してやまないでいるのを感じさせられました。恵まれた時の流れを感謝しました。
2014年3月2日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグはしばしば自然界としての人体と、霊の世界の関係を相応と言う観点から説いています。心臓と愛との相応、肺と真理との相応をはじめ人体のすべての部分は天界を表象しているといいます。こうした記述から私達はこの自然界にふれることを通して霊の世界を身近に感じていくことができます。
 家庭生活、職業生活、教会生活の中にあっても同様で、私達は、生活の中に主の働きを見ることで、当たり前と思っていたことは、実は当たり前ではなく主の働きがあって実在していることに気づかされます。そして感謝の気持ちが湧いてきます。
 私達は人体のそれぞれの臓器が特別の個性的な働きをしていることを知っています。そしてそれぞれ個性的な特別な仕事をしている時に、私という個人は健康であるということがあります。健康な状態を維持で来ているということは、神の似姿として私達は天国的な要素を既に与えられているということでしょう。
 教会を運営していく時にそこには様々な人の期待や願いがあります。それぞれは千差万別といっていいかもしれません。それ位多岐にわたっています。私達が健康な教会を造ろうと思えば、それぞれの価値観、考え方、そして方法論が出てきて当然です。そこにあるものを皆で出し合って検討しあい、一つづつ決めていくという手間隙のかかる作業を積み上げていくことが必要でしょう。
 それは一見のろのろとなかなか前進しないかのように見えますが、実はそこにこそ天国の到来があるのではないでしょうか。私達には、自分の中にある悪を避ける戦いがこのような場を通して与えられているのだと思います。そこに個別の善だけでなく公の善が出現してくるのでしょう。私達の日々が霊的成長の時だとつくづく感じさせられます。本物を目指して精進したいものです。
2014年2月23日(日)牧師 國枝欣一
スウェーデンボルグの著作にも自分に深く気づくことの重要性が書かれています。「善はすべて主から、悪はすべて人間から」と言うことばが著作には何度も何度も出てきますが、これを知り、理解することはできても実感としてとらえることは難しいのではないでしょうか。自分が善い事をしているとしか思えないからです。
 ところが「人はみんな本人の決意・意図・目的によって正体が分かり、判別されます。・・・」(真のキリスト教523)とあります。これは彼が霊界で聴いて来た話ですが、この「決意・意図・目的」を私達はなかなか把握できません。心の奥深くにあるために意識していないからです。しかしこの「決意・意図・目的」こそ私達の霊の状態なのです。私達の<いのち>の傾向と言っても良いかもしれません。
 しかしこれが分からないと悪や罪から離れることは出来ません。悔い改めも出来ません。結果として再生は夢のまた夢になってしまいます。そして始めて自分の罪に気づいたとき、周りの見え方が今までとは違ってきます。事実に変化は有りませんが"私"の事実対する関わり方が違ってきます。今までの意味づけと違った意味づけが出来るようになるためです。
 信仰は生活だというスウェーデンボルグの主張は、"私"の中に働く主、すなわち"私"の中に主をお招きすることですが、それは頭で考えることではなく、感情として体が感じるものです。主が何時も"私"と共に居てくださるという実感が、十戒を結果として守ることにつながります。主が"私"と共に居てくださるという実感は、実はその人が真理から行動するのではなく、善から行動することになるのです。その善は何時も真理に裏打ちされているということになるのです。そのとき私達の信仰は本物になるのです。  
2014年2月16日(日)牧師 國枝欣一
私達は誰でも生活の中で枠組みを持っています。この枠組みに沿って生活をしています。その枠組みにあまりにも親しんでいるために枠組みを持っていることにすら気づかないことが実に多いのです。
 ですから、このように思うのが当たり前とか、皆も同じように考えると頭から思い込んでしまうことがあります。こうなると周りと軋轢を繰り返し、本人はいらいらせざるを得ません。このような状態に置かれると私達は周りが悪い、いらいらさせる原因は周りにあると考えがちです。
 このように考えていくと私達は自分の相手や周りを変えようとしますますいらいらしていきます。私の経験を挙げます。私のパートナーは50ccのバイクを使っています。新しく買い換えてあげたので大切に使って欲しかったのですが、彼女は何時も帰宅するとカバーをきちんと懸けません。私はそれを見て何時もいらいらし文句を言っていました。それを私は繰り返していました。
 ある時気づきました。自分がいらいらするのは自分の価値観が原因で相手と価値観が違うのだ。そうならば自分のためにバイクのカバーを直せばいい、そう気づいた私は毎日自宅に入る前彼女のかぶせたカバーを直してから家に入りました。今では 彼女が新しく買い換えたカバーを丁寧に懸けるようになりました。自分を変えると相手が変わりやすくなるという実例です。
 自分の枠組みに気づくことは自分の生活を穏やかにすることに繋がります。そして自分理解と相手や周りへの理解が深まります。それは主の視点を持つことと同じなんだと気付かされました。 
2014年2月9日(日)牧師 國枝欣一
善と真理がくっ付くとそれは行為となって現れます。その人の善や愛や真理や知恵はそのままでは実態となって現れてこないので他人には分かりません。
 これは昔東大の先生から聴いた話ですが、その先生の研究室に先生の秘書を好きになった院生が居たそうです。彼は告白出来ずに悶々としていました。ところがある夕方秘書が帰宅しようと研究室を出たら外は雨が降っていました。彼女はどうしたものかとたたずんでいたようでしたが、丁度そこに別の院生が通りかかり、彼の傘に入って御茶ノ水駅まで行ったそうでした。それがきっかけでその秘書さんは傘を差しかけた院生と結婚したそうです。
 この話からも愛は真理や合理性(ここでは傘を差す)とくっ付かないと実態にならないということが分かります。比べようもありませんがたとえ悶々と彼女のことを思っていても   それは目に見える実態とならないので彼は結果的に失恋するということになりました。
 先週金曜日教会の整理をしようということで6人が集まり半日整理に取り組みました。一番若い人は50代。一番上は80代後半でしたがこの方々と共に働く中でこの方々の教会への熱い愛を感じました。それはその方々の行為を通して感じさせられたのです。善+真理=行為とはスウェーデンボルグの著作のなかにしばしばでてくることですが、同時に真理でない善や愛もなければ、愛や善のない真理は真理でないとも言っています。ですから両方があって行為と言う実態になるので、結果としてはそれぞれの行為を感じたり、見たりして私達は他人の愛の傾向を知ったり、ものの考え方を知るようになるのです。共に働いて心地良い疲れを感じられた一日でした。主の導きに感謝しました。  
2014年2月2日(日)牧師 國枝欣一
神秘主義と密教。同じなのか違うのか明確に区別できる人がどれほどいるでしょうか。手っ取り早く広辞苑をみて見ましょう。神秘主義は「神、絶対者などの最高の実在を独自の直接的内面的な経験、直観によってとらえることができるという哲学、宗教上の立場。西洋ではプロティノスに始まり、新プラトン学派やエックハルトなどのドイツ神秘主義が代表的。一方密教は、「仏教の流派の一。容易に知りえない秘密の教えの意。インドで大乗仏教発展の極みに現れ、中国、日本のほかネパール、チベットなどにも広まった。わが国では真言宗系の東密と天台宗系の台密とがある。」とあります。
 ということは仏教系の神秘主義を密教といい、西洋の密教を神秘主義と呼んでいることが分かります。両方とも霊的体験をする訳ですが、それを言語化するときには時間と空間の影響を免れないので、書かれた物を読む限り互いに異なっているように思いますが、その著者自身の霊的体験の中核部分は限りなく似ているということがあります。
スウェーデンボルグは通常の人には出来ない天界とこの地上を行き来できた人です。霊的体験を日常的にしていた人です。彼の行動に関する様々な証言集があります。パーティーに出ていた時に数百キロも離れた街の大火を知り、知人の家が燃えそうになったけれどその直ぐ手前で鎮火して家は無事だったという話をしたことや、亡くなった王の支払った領収書を探し当てる話とか様々な話が残っていますが、彼自身はこうした能力をたいしたことだとは思っていませんでした。彼は聖書の内的な意味、それが秘儀ですが、隠された秘密の教えを理解してそれを人々に伝え、キリスト教会を真のキリスト教会にしたいと願っていました。
このことを忘れて神秘体験にのみ興味を持ち、そうしたものに触れたいと願うと私たちに与えられている自由選択の意志と合理的判断を放棄することに繋がり、結果として神から遠ざかる道を選んでしまう危険を犯します。注意しましょう。 
2014年1月26日(日)牧師 國枝欣一
来週は学習会です。明治のスウェーデンボルグ―奥邃、有礼、正造をつなぐもの―春風社をテキストにして学びます。瀬上正仁さんは仙台在住の有能な整形外科医です。彼はJSAの会員でもありますが、ご本人は東京新教会初代牧師土居米造師の孫弟子とも思っている方でもあります。瀬上さんは18才の頃から勝又正三師(1924~1980)の集会「魚と水の会」にお母さんを通じて導かれ、師の亡くなられて以降、「愛光会」と改称して集会を続けてこられた方です。瀬上さんの師である勝又正三師と土居米造師はしばしば会っており信仰に関して一再ならず話し合いの時を持っていました。これは土居先生が出しておられた「東京新教会通信」に載っています。私はそれをボストンの神学校に居る時に読んだことがあります。
 勝又正三師 「魚と水の会」の核心をなしていたのは「日本の神道の内奥に隠れた神はイエス・キリストであり、その真神を再発見することが、日本と世界の危機を救う」と言う考えであった。(「魚と水 ―ある天才宗教家霊的体験の記録―」瀬上正仁編春風社)そして神道式の礼拝によってキリスト教を信仰しておられたと瀬上さんは言っておられます。
 新教会は既成の教会のような形を取って生まれないという考え方は、スウェーデンボルグの考え方です。そして師はいわれます。「一人一人が預言者の自覚を持って神イエスの真理を生活の中で実践することがもっとも大切」と繰り返し強調されたようです。これは全く新教会の考え方で、その面で土居、勝又と続く系譜に瀬上さんが、連なり、「自分は土居先生の孫弟子」と言われるのも納得できます。その孫弟子である瀬上産の著作を学ぶということに「縁」を感じます。すでに瀬上さんの著作をお持ちの方は来週お持ちください。 
2014年1月19日(日)牧師 國枝欣一
新年を迎え、皆様も心新たにされ、この一年を過ごそうとされていることと思います。クリスマスと新年を迎えるたびに思い出すことがあります。それは人々の心の持ちようがアメリカと日本では逆と言うことです。日本人の多くは元旦の朝、初詣として神社を訪ね、手を合わせて今年一年の無病息災、家内安全、商売繁盛を祈願します。私は行ったことがありませんが、JR原宿駅では参拝者のために直接明治神宮に入れる駅が開放されたとテレビでは報道されていました。それほど多くの日本人が正月3が日に宗教的になると言うことでしょう。それは日本文化に根付いたものだと思います。町中も元旦は特に空気がりんとしていて聖なるものを感じさせられます。
 ところがアメリカの元旦は12月31日からのカウントダウンに始まってみんな大騒ぎをして通常は見られない街の中でお酒を飲み交わしています。ですから1日の朝の町のの様子はゴミだらけというところがあちこちに見られます。そして元旦は祝日ですが、2日からは仕事が始まります。クリスマスはこれと真逆でクリスマス休暇があり、当日は街の中は人気もまばらです。人々はみな家族で集まりクリスマスを祝っているのです。現代ではアメリカでもクリスチャン人口は30%台ですが、文化としてクリスマスの祝い方が定着しているように思います。
 新教会人としてこうした文化の違いをよく理解したうえで、どのように新教会の理念を接木していけばよいのかを深く考えてみたいと思います。深く考え、それを意志し、行為として具現化することが求められています。今年も新たなる試みに挑戦していきたく思います。知恵を出し合いましょう。共に新年を迎えられたことを感謝しつつ、緊張感を持って新年を迎えました。今年もどうぞよろしくお願いします。  
2014年1月12日(日)牧師 國枝欣一

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