教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから
 クリスマスはイエス・キリストの降誕記念日ですが、ギリシャのクレメンス(150年頃~215年頃)という神学者がキリストの降誕日を5月20日と推測しました。4世紀後半にはクリスマスが毎年祝われるようになったそうです。12月25日に祝った最古の記録は336年だそうです。そこには12月25日キリストはベツレヘムでお生まれになったと言う記述があるそうです。25日に定められたのは、その頃行われていた異教の祭り「太陽の誕生」に対抗して「義の太陽」の出現を祝う祭りであったといわれています。コンスタンチノボリスよりエルサレムで祝われたのは後(6世紀)といわれています。異教の祝い方がクリスマスの祝い方に影響をあたえているといわれています。
キリスト教が世界宗教になったのは、教えの進出に伴って、様々な地域の価値観や風習を取り入れたからです。初期の教会はそれだけエネルギーと他を受け入れていく柔軟性がありました。私達の新教会はもともと小さなグループから始まったのですが、新教会の真骨頂は他の宗教を否定しないという点にあります。それがシカゴ万博と共に開かれた世界宗教者会議に現れています。
この新教会の理念を21世紀にどのように生かすかは優れて私達の問題です。企業はイノベーションを続けていかないと倒産してしまいます。教会は法律で保護されているのでその存続は守られています。しかしそれを意識していないと固定化し化石のようになってしまいます。東京新教会もその例外ではありません。今日の社会状況をどのように理解し、どのように関わるのか、真剣に考えなければなりません。主が今求めておられるのは何なのか、そこに我々はどのように関わるのかチェックする必要性を感じます。クリスマスの日にこんなことを考えました。知恵を合わせて考えましょう。みなさんと考え合っていきたいと思います。
メリークリスマス! 
2013年12月22日(日)牧師 國枝欣一
 このところ年末の慣例になっている清水寺の住職による今年の漢字が「輪」であったことが先週新聞の記事となっていました。車の輪、人の輪、五輪の輪、様々に輪が使われますが、そのどれにも「角」がないというのが面白く感じました。「角」と「輪」は相反するものでしょうか。四角形、五角形、六角形と角の数を無限に増やすと角が取れ「円」すなわち「輪」になりスムーズさを感じます。一方「角」の方は角が立つ、角張る、角を入る(目を怒らせる)のように、「角」の方は物の隅のように何か流れが悪い状態を感じさせられます。
言葉は実体を伝えてくれると共にスピリチュアル、見えないものも伝えてくれます。この「輪」もまた同じで、エネルギーの順調な流れ、循環をも感じさせられます。人の「輪」の中にいると助け合い、支え合いが起こり、皆が物質的にも、心理的にも満たされる感じがします。輪が育ってくると「絆」を生みもっと強力になります。東日本大震災の折によく言われた言葉です。
山と里と海もひとつのつながりを持ってその健康が保たれます。雨が降り、山が健康で植生がバランスよく保たれていると、海の生き物が繁殖し、里に住む人々の生活が豊かになります。自然界の循環はスピリチュアルな世界を表象します。この循環もまた「輪」によって表すことが出来ます。
「輪」と言えば結婚指輪も「輪」です。若い二人が交わすこの指輪は愛の永遠性を表します。それは二人の間の愛だけでなく、神の愛の永遠性をも表しています。「輪」はエネルギーの循環、自然の世界と霊の世界のエネルギーの循環をも表しています。自分の角を取り、無限に「輪」になれるよう、日々の生活を整えて生きたいものです。今年の漢字からそんなことを考えさせられました。  
2013年12月15日(日)牧師 國枝欣一
 国際宗教研究所が出版している2013年度の現代宗教という本を読みました。東日本大震災に関する論文集ですが、この中に台湾における反原発運動に関する中国人の論文がありました。それによると台湾には現在4箇所に6基の原発があるようです。その内3箇所は台湾最北部に、残りの一つは最南端にあるようです。論文はその4箇所目の原発反対運動の変遷を述べています。台湾は日本と違って長い間戒厳令が敷かれていました。4つめの原発は1980年に計画され、すでに完成し、試験運転がされているようですが、本格的な運転には至っていないようです。
反対運動は30年間続いているようです。 初めは戒厳令下でもあり地域住民の間でもごく僅かな人々の運動だったようです。国民党1党独裁は1987年の戒厳令解除によって民進党が認可され、チェルノブイリ原発事故もあって、民進党が反原発を公約にあげて勢力を伸ばしました。原発反対運動もそれによって全国的なものとなったようです。ところが民進党が政権をとった後も、国民党やその他の推進派の抵抗もあり、原発計画を破棄することが出来ませんでした。
政党依存の反原発運動の限界でした。もともとこの反原発運動は漁民を中心とする地域運動だったのですが、そこに回帰して地域の宗教を中心に勢いを盛り返します。海の女神、媽祖は台湾人と漢族が地域で仲良く暮らしている時(17世紀)に両方の女性たちが発見した神でした。この女神が祭られている廟が運動の中心となり、民族と政党を超えての運動になったそうです。宗教の力は様々な違いを超えて人々を結びつける力があります。それは愛と善、英知と真理の神がそこに働き、共に生きることが出来るためです。台湾の例に学びつつ私達の福島の原発事故を見直したいです。 
2013年12月8日(日)牧師 國枝欣一
 夢には色々な夢があります。不可解な夢を先々週、先週と見て目覚めが悪い思いをしました。一つ目は自宅の門から見た夢です。私の家の門は小さな丘の谷に向かって開いています。夢ではハワイで学んでいた時に住んでいた家の前の谷のように大きなものでした。そこに中型飛行機が入って来てホバリング(空中停止)しているのです。変だと思ったらその飛行機のエンジンは止まっていました。少しすると右旋回してもう一つの丘の方にすべるように飛んで行き、丘の向こう側に尾翼から墜落していくというものでした。私はそれの一部始終を見ていました。二つ目は、運河沿いのレストランで友人と会うことにしているのですが、その約束が他の二つの約束と重なっていることに気が付いて右往左往している私でした。
 両方ともはっきりした夢でDVDを見ているようでした。はじめの夢ではすぐ助けに行こうと家を出ますが、ビジネス街に迷い込んで行けません。周りの人は事故に気が付いていないようです。次の夢では小雨が今にも降ってきそうなレストランの前で私は頭を抱えています。
 共通していることは事態が緊迫していると言うこと、それをまえに孤独な状況にあることです。それは今の私自身を象徴している夢なのか、何かを伝えようとしている予知夢なにか今のところ自分でも分かりません。でも目覚めて両方の夢とも何か心の中におりが溜まるような嫌な体験をしました。牢に入れられたヨセフが王様の夢解きをしたように、夢の意味が分かるといいなと感じています。現時点では分からなくても理解できる時が来るのを祈りつつ待っています。 
2013年12月1日(日)牧師 國枝欣一
 先週の新聞に東海原子力発電所の予定されていた廃炉ができないと言う新聞記事が出ていました。発電所から出る放射性廃棄物を処理する場所が決まっていないからというものでした。高濃度に汚染された部材は安全に処理する方法が確立されているのでしょうか。また汚染されたものを安全に管理するためにはどれほどのお金がかかるのでしょうか。
一方福島第一原発の汚染水が海洋汚染を起すのではないかとの懸念が諸外国から起こっています。 安倍首相は「海洋汚染が起こらないように私が責任を持つ」と海外に宣言しています。でも「ちょっと待ってください」と言いたい気分になります。まるで自分の権力で出来るようなことを言っているけれど、その費用は全部国民の税金で行う訳で、それが一体いくら掛かりどれほど国民が耐えなければならないのか何も私たちには示されていません。安倍首相は海外に大見得を張ったら、国内へ協力を求めるべきなのにそれをしていません。
より小規模の東海原発の処理工程さえ決められないでいるのに、福島原発の原発の廃炉処理は出来るのでしょうか。原子炉の安全神話は崩れ去りました。原子力が最も安い電力であると言うことも否定されました。にも拘らず中進国へ原子炉を売り込む厚顔さです。権力を持った者のおごりを感じます。まして122兆円もの負債を抱えていて、一体どうなるのだろうと思います。隠されているもので顕にならないものはないというのがスウェーデンボルグの教えです。古くは足尾銅山鉱毒事件、水俣の有機水銀中毒事件、そして今原子力の問題です。みな利権と私欲のなせる業です。自分の心の内部を見つめると共に社会問題への注意力を持っておきたいものです。
2013年11月24日(日)牧師 國枝欣一
 表題は「おのれの欲っせざる所、人に施すなかれ」と読みくだします。聖書には「自分を愛するように他人を愛しなさい」とあります。同じことを違った角度からいっていると感じます。宗教の教義を見たり比較したりする時、多くの人はその違いに注目します。私達は同じところに気づくより、異なったところに気づくのがどうやら普通のようです。
 異なっているところを知ることは、相手をより正確に理解するために大切なことですが、そうしているとなかなか一致することは出来ません。
 価値判断をしないで、あることをあると 受け入れることは高い霊性でないとできません。愛のサイドが充分成長していないために、好き嫌いがどうしても出てきてしまい行為のレベルで違和感が生ずるのです。他人には分かりませんが本人は知っています。意識化していなくても無理している、或は演技している自分を抱えているのです。
 一方似ていることや同じことを見出そうとする姿勢には、霊的な高さが存在します。そこには、尊敬や慈しみを持って対象を見ようとする姿勢があります。そこには絶対的な存在(私たちにとっては主なる神)が働いているのです。働いてそこから流れてくるものを意識せずに受け止めているのです。
仏教、イスラム教、儒教、キリスト教、ヒンドゥー教など長い歴史を持った宗教はみな個性的でありながらもその中にはどの宗教にも共通する普遍的なものを含んでいます。赤十字やYMCAはその普遍的なものを行為として人々に役立とうとしている団体です。新教会は1787年に産声を上げましたが、上記二つの団体を生み出す背景には新教会の普遍性が働いていたのではないでしょうか。創始者の生きていた時代があまりにも近いのです。
2013年11月17日(日)牧師 國枝欣一
 今週は召天者記念礼拝の準備もあり、さまざまな先達に思いを寄せながら過ごしました。私の父は終戦時小樽にいましたが、本社からの指示で東京に戻ってきました。家長であった父は内地の食料事情を考え、多量の食料を買い込み、私がまだ2歳前で、妊娠していた母のこともあって、船で帰って来ました。機雷がまだ除去されていないこともあって小樽から芝浦まで1週間かかったそうです。船内で肺炎にかかり自宅に着いて2日目に父は亡くなりました。家に疎開していた親類と、父の死後、食料の分配で争いが起こり、それが原因で戦後何十年経ってもギクシャクした関係が残りました。
 家長の存在する家族は現代にも沢山あります。それは明治憲法下の家父長制度そのものではないにしても意識の中には戦後60年経っても人々の中には残っているのではないでしょうか。家族の文化と言ってもよいと思いますが、家長を引き受ける家族とそうでない家族との確執は出てきます。家長という地位は選び取ることが出来ません。それを引き受ける者にとってはしばしば重荷となります。
 しかし私はこの家父長制度の価値観を古臭く捨て去るべきものとは必ずしも思いません。都市化が進み、核家族化が進行し、社会の老齢化した結果、人々が孤立化し、介護などの問題が深刻化しています。家族の絆が震災以降深く人々の間で再認識されました。この絆が私たちに思い起こさせるものの中に親族の集まりがあるのではないでしょうか。先祖の果たした役割を思い起し、感謝する姿勢の中に現在に生きる私達の人生を省みる機会を与えられるのではないでしょうか。その役割を果たすのが現代の家長ではないかと思います。家長の中に主の働きをを感じます。
2013年11月10日(日)牧師 國枝欣一
 江戸東京博物館に行ってきました。エドワード・S・モースが見た庶民の暮らし展について新聞で知り、行って見たくなったのです。モースについて私の知っている知識は大森貝塚の発見位でしたが、その個人像をもっと知りたかったからです。モースは明治期に日本に来て日本文化に興味を持ち様々なものを集めたようです。
 人々の暮らしの中で使われていたもの、生活用品を集めました。貴族や大名と言った社会的な地位のある人々の使っていた美術的な価値の高いものではなく、庶民が日常使っていた、筆や箒、修繕した跡がある鍋やつぎの当ててある衣類、かなり履きこんだ下駄、髪の毛の付いている櫛などです。これらの物が私達の祖先の生活をリアルに再現してくれます。
 ある物は戦後の昭和20年代になっても使われていた物もあり、私の記憶とも繋がります。物が乏しく丁寧に手間隙をかけて修理して使い続けたものがあります。その記憶が明治期の父母の幼少期の生活とだぶりました。懐かしさを感じました。
 現代は大量生産大量消費の時代と言えるでしょう。明治、大正、昭和の前半のものはみな土に返ります。しかし現代の物の内腐らないものが沢山あります。これらは永久にと言って良いほど長い時間ゴミとして残ります。
 快適さを求め、便利さを追求する結果、私達の能力は確実に劣っていきます。明治の時代に戻ることは不可能でしょう。でも快適さ便利さの追求から私達は自由になる必要がありそうです。不便さを楽しむ余裕を持ちたく思います。我慢が大切なのだと思います。ただ昔を懐かしむのではなく、今を生きるものとして、何が善であり、悪なのか見極める力を上から頂きたく、切に願いたく思いました。
2013年11月3日(日)牧師 國枝欣一
 春夏秋冬のある日本は本当に自然豊かな日本です。先週群馬県と栃木県を回ってきました。温泉につかり紅葉を楽しんできました。もしアブラハムがウルを出て日本まで来たら神が約束された「乳と蜜の流れる地」はカナンではなく日本だったのではないかなんていうことを思った小旅行でした。
 留学先であったボストンも秋は綺麗でしたが、決定的に違うのは、ボストンの秋は黄色なのに日本の秋は紅葉というように赤が重要な働きをしていることです。そして田んぼには稲が刈り取られ、干されていたことです。
 秋は収穫の時でもありますが、同時に台風による災害の季節でもあります。秋雨前線というように夏と秋の間に雨の降りやすい期間があります。最近は台風との関係で1ヶ月分の雨が1日で降るなどということがあちこちで起きています。これが災害をもたらします。
 私達の住んでいる日本では地震と台風は避けることの出来ない災害です。この災害に直面し私達の魂は大きな傷を負うことがあります。財産を失い、愛する家族や知人の命を奪うと言うこともあります。アブラハムの家族も飢饉に会い、エジプトに避難しました。そしてまたカナンに戻ってきます。
私達もまたこの苦難から多くのことを学び、人間として成長する必要があります。四季、六季(梅雨、秋雨をいれる)は私達の霊的成長をも表象しているようにも感じます。青空のもとの紅葉は神の恵みを感ずる時でもあります。日々の生活の中で神の働きを肌を通して感じられる時、私達は自分の人生を無駄遣いすることなく、人々との関係の中で豊かに生きられるようになるのだと感じます。
2013年10月27日(日)牧師 國枝欣一
 先週の大きなニュースは大島町の台風26号の大雨が原因となった土石流による災害でした。多くの方が亡くなり、まだ救助活動が続けられています。地球温暖化が原因する災害(旱魃、豪雨、砂漠化、海面の上昇による浸水等)が地球上を覆います。  今までは、そうした災害もどこか遠くのことと感じていたのですが、大島町の災害は、そうした災害が身近に迫っていることを私達に伝えているように感じます。
福島第一原発の事故は、私たちに大きな衝撃を与えています。安全神話は完全に瓦解しました。多くの人々がこの事故に影響され、避難しなければならなくなり、農業も漁業も、畜産も多大な影響を得ています。それだけでなく一般人に食の不安を与えています。地球温暖化防止の切り札と考えられた原発が実は人類の滅亡さえ起させる危険な代物であることが分かりました。
その上、この原発事故はテロの危険性に対してあまりにも脆弱であることを世界に知らせました。電源さえ破壊すれば原発を暴走させることが出来るということです。テロから原発を守るために膨大な警備費用が必要です。また事故を起した原子炉を廃棄するために膨大な時間と費用を必要とします。その過程で出る廃棄物の処理も大問題です。
私たちの子供や孫ひ孫がその費用を負担しなければなりません。曽祖父や祖父の浪費が未来の子孫に負担をつけを回すのです。そんなことすべきでないと言うのが素人の私達の考えでしょう。神の絶対的真理は神の本性そのものです。その真理に目覚めることは集合無意識に目覚めることでもあります。その意識は隣人愛に生きることを前提にしています。生活を見直すことでその考えに近づけるのではないでしょうか。
2013年10月20日(日)牧師 國枝欣一
 先週ずっとヘイトスピーチが気になって仕方がありませんでした。このヘイトスピーチがちょっとしたことで偏執狂的な愛国心を掻き立て、社会の不安定性をかもしだし、ドイツのヒットラーの時代にユダヤ人が大量虐殺された様な時代が来てしまうのではないかと言う怖れを感じていたのです。真理が逆転して虚偽が真理とされる社会的な雰囲気の到来です。
 また、こうした時代にあって教会に何が出来るのかとも考えました。様々な困難を抱えている青年達に何を教会は提供できるのかと考えました。簡単に答えが出るわけではないのですが、避けて通れない課題だと感じています。この青年たちは自分の抱えている問題に目を向けるのではなく、外に敵を作ることで他の人から認められたいという欲求持っているのです。
 私たちには教義がありますが、それを振りかざすことが彼らのニーズに応えることになりません。友達もなく、仕事の面でも上手く行かないと感じている若者に、あなたは愛されている、それでいいのだ、今与えられている恵みを伝えてもどれほどの力になるのか、考え込んでしまいます。
 "Be!"の青年たちを見ていても自律に時間がかかることを感じています。彼らに必要なものは矢張り承認欲求と言われるものです。認めていくこと、認めているよと伝え続けることの大切さを思います。しかし同時に彼らの欲求不満を安全に発散させることの大切さも思います。ヘイトスピーチは欲求不満の捌け口であるならばそれに見合った行為は何だろうと考えます。その人の所属感が満たされ、その人の中にある不安や怖れが安全感に代わるアクティビティーは何なのか見極めたいです。  
2013年10月13日(日)牧師 國枝欣一
 先週の後記を読んでくれた会員のお一人からヘイトクライム・ヘイトスピーチに関しては無知と無理解だけではないのだと指摘頂き1冊の本を貸してくださいました。私自身もヘイトスピーチをする人々にレッテル貼りをしそうな位置にいたことを知らされました。
 相手をカテゴライズし、レッテルを張ること自身がまた相手を理解しないことに繋がってしまう危険性があります。あることをあるように見るということが以下に難しいか分かります。
 さて、在日の韓国朝鮮人や中国人の既得権が、若いごく普通の日本人青年たちを苦境に追い込んでいるという考え方があるようです。その真実を見極める必要があるでしょう。デモ参加の人々の中に非正規雇用の人々が実に多いとも言われています。しかし全労働者の4割近くが非正規雇用という現実の中でそうした人々が特別と言うことはないでしょう。
社会の中で認知されていないと感じている若者たちがネットの呼びかけを通じて集まってきているとありました。私たちの時代の政治的な運動とは大きく違います。そこには常に話し合いがあり、人と人が出会っていましたが、ここではいろいろな不満や孤立感を抱えた人々が一時的に集まってその時の一体感を感じあっているようです。
 その一体感を感じるために標的になるのが在日の人々です。弱いものが弱いもの同士連帯をするのではなく弱いものがもっと弱いものを虐げるのがこの世の世界です。 無関心ではなく知ろうとすることは愛の第一歩です。私たちが自分に欠けている神の性質をその生活の中に生かそうと努力する時、自分の中にある異質に気づき、それを無視したり抑圧するのでなく、あるがままを受け入れながら共に立ち、社会を作っていけると新たな世界観を手に入れられるようになるのではないでしょうか。  
2013年10月6日(日)牧師 國枝欣一
 最近ヘイトクライム、ヘイトスピーチと言う言葉が新聞に出てきます。前者は「憎悪犯罪」、後者を「憎悪表現」と日本語訳が与えられていますが、人種や国籍、宗教、性による差別が原因で起こる犯罪がヘイトクライム、それらの差別を助長し、相手に無力感や憎悪感を起させる表現が後者となります。中東における宗教間の対立、アフリカにおける民族対立など、一見私達から遠いことのように感じますが、こうしたデモが朝鮮半島出身者の多い新大久保でなされたと言うことで、私たちの身近なところにもこうした差別が起きていることに驚きを感じます。
 尖閣列島、竹島、北方領土問題で日本は外交上困難な状態にありますが、こうしたことがヘイトクライム、ヘイトスピーチを生む背景にあるように思います。しかしここには無理解と思い込みが常に付いて回るように思います。私たち日本人は一般的に日本史を学ぶ時に近代現代を学ぶ機会が少ないように思います。私の高校時代を思い返してみても近代現代は駆け足でしたし、学んでいない部分も沢山ありました。ヘイトクライム、ヘイトスピーチには常に「相手を知らない」と言う側面があります。
 知ると言うことは真理を知ると言うことですが、虚偽は誤謬を生み出します。相手を知ると言うことは、相手の中に働く主を見ることです。知らないと言うことに謙虚になりたく思います。そうすると知ろうと言う気持ちが湧いてきます。知らないことを知ると言う姿勢は真理への愛です。太陽はたとえ雨の日であってもいつも地球を温めています。同じように主は私たちにだけでなく私たちが憎しみを持つ相手にも働いています。だから相手に働いている神を見出そうとするならば、それは決して不可能ではありません。
 自分の尊厳を守ることが大切であるように相手の尊厳に敬意を払う姿勢は、私たちに相手をもっと知ろうと言う姿勢をかもし出します。するとそこにはその人や、その民族の中に働いている特別な尊敬できる何かを見出すことに繋がるでしょう。私達はそうすることで信仰を生活化することが出来ます。差別すること、思い込むことをしていてどうして自分の信仰が正しいと言えるでしょうか。  
2013年9月29日(日)牧師 國枝欣一
 皆様の了解が得られて一週間にわたるスピリチュアルケア学会に参加することが出来ました。スピリチュアルケアというと今まではキリスト教関係者が殆どでしたが、今年は仏教の様々な宗派、神道、新宗教といわれる天理教や大本教、その上宗教学学者もまで加わり、多様性にとんだ学際的な学会となりました。その上アジアのチャプレンも加わり、活力に溢れた会となりました。                                 東北大学を会場に500人ほどの会員が集まりましたが、東日本大震災との関わりで、被災者の方々に宗教性がどれほど大切かと思わされることが多々ありました。学会中に被災地を巡るツアーがありました。神社とお寺を見て回り、それらの地域に果たしている姿を見せていただきました。2年経ったとはいえ、被災の跡は生々しく残っていました。朝8時から夜10時までの強行軍でしたが、神官や僧侶の地域で果たしている役割も知ることが出来ました。こんな中でお坊さんや、神主さんが、幽霊をどの様に扱うかかなり迷っていると言うことをお聞きしました。というのはそれぞれの集落で沢山の方々が亡くなっていたり、行方不明になっていたりするものですから、彼らは住民から幽霊の話を聴くことが間々あるのだそうです。これにとの用に応えるのかが、分からないと言うのです。                              帰りの車の中では、思いがけずお坊さんに対する個人スパービジョンになりましたが、これもまた現地で働く方々の苦悩として学ぶことが出来ました。「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、まさにその通りで東京にいては分からないことが沢山ありました。まだまだ書きたいことは沢山ありますが、主の導きに感謝してここでひとまず終わります。
2013年9月22日(日)牧師 國枝欣一
 東京オリンピックが2020年に開催されることが決まりました。自民党安倍政権に変わって、庶民には実感がありませんが、様々な経済指標は景気が上向きになっているとニュースで報道されています。明るいニュースばかりではありません。生活を立て直したいと思っている人の生活保護費のカット、精神障がい者厚生年金の見直しが行われて、何とか自立しようと努力している障害者が年金を支給されなくなり、落胆し、病状が返って悪くなり、仕事も続けられなくなると言う実例に出会いました。
それぞれの人が本当に真面目に生活を立て直し、現状から抜け出そうとしているその最中に上記のようなことが進行しているのです。明るい兆しに喜んでいる一方で、生活弱者と言われる方々が益々苦しい状況に追い込まれていると言う現状があります。年金が支給されなくなった41歳の方は、障害者雇用で入社、一ヶ月働いて10万円そこそこの手取りです。年金と合わせてやっと17万で同じ障害を持つパートナーと独立した生活をしていましたが、それも出来なくなりました。
激しい怒りを持っています。その怒りが彼自身を傷つける方向に向いています。そのためにその怒りをバネにこうした社会政策に批判の声を上げることも出来ません。彼を助けたくても当の本人がそれを望みません。障がい者は親に面倒を見てもらえと言うことなのでしょうか。生活保護費のカットにあっている方の親は90に手が届くほどの高齢者で、介護を必要としています。親を面倒見なければいけないのに、面倒を見てもらわなければ生きて行けません。
オリンピックの経済波及効果が何兆円と言われても、それで個々人にエネルギーが湧いて来る感じはしません。それよりも将来への漠然とした不安の方が大きい現実があります。社会的弱者の尊厳が守られてこそ、安心が生まれ、それぞれが自分の役をこなしていかれる社会の出現を実現されるのではないでしょうか。 
2013年9月15日(日)牧師 國枝欣一

 昨年京都で行われた日本スピリチュアルケア学会(学会は土日に行われるので私はこのとき日曜日の礼拝をはずせないので土曜日の参加だけでした。)では、鈴木大拙の霊性という発表もありました。もちろん発表者は大拙がスウェーデンボルグの著作を訳したと言うことも知っていました。ところが次の日曜日には鼎談があり、カトリックのSr.である高木慶子さん(上智大学グリーフケア研究所長)、聖路加病院理事長日野原重明さん、島薗 進さん(東大教授)のお三方が自由に日本人の霊性ということを話しておりましたが、日野原さんは大拙が帰国後彼の主治医になられたそうです。その時に大拙が日野原さんに「自分はスウェーデンボルグに大きな影響を受けた。」と言われたそうです。また島薗先生も若い時にスウェーデンボルグの著作を読んだということを語られています。
実は大拙が「天界と地獄」、「神知と神愛」(神の愛と知恵アルカナ出版)、「神慮論」(神の摂理同出版)「神エルサレムとその教説」を翻訳し、「スウェーデンボルグ小伝」を書いた後、彼はその著作の中では一切スウェーデンボルグに触れていません。ですからスウェーデンボルグの与えた影響は推測するしかありませんでした。ところが最晩年、日野原さんの患者さんとして大拙が何年にも渡って健康管理のお世話になる中で大拙は上述のようなことを言われたそうです。これは私たちにとって大きなことです。
大拙の座右の銘は「善をなすなり」であったといわれていますが、1910年にひらかれたInternational Swedenborg Congressで大拙は副議長をつとめています。この時に著作の中のOmnis religioest vitae, et vita ejeus facere bonum.(ラテン語)ということばを各国語で書き、大拙は「宗教はすべて人生と交渉す、而して宗教の生涯は善をなすにあり。」と訳しています。この時の経験が大拙の座右の銘になったと考えても良いのではないかと思います。
2013年9月8日(日)牧師 國枝欣一

 9月1日は関東大震災記念日です。10万5千人もの人々が亡くなったと言うことです。私達はその後沢山の震災を経験しています。十勝沖地震、中越地震、阪神大震災、東日本大震災などなど。東日本大震災が他の地震と大きく違う点は行方不明者がいまだに沢山いることです。夫が妻が、親が、子供が見つからないと言うことが、ご遺族を苦しめ、悲しみや、喪失感から抜け出せなくなっている大きな要因になっていると言うことです。
 ご遺体が見つかって葬儀を行うことが新たなる出発点になっていると言う例は沢山あるようです。遺体に関する私たち日本人の関わり方は、他の民族と異なっているそうです。遺体を丁寧に扱うことで遺族は新しい出発を手に入れることが出来るのだそうです。遺体があり、葬儀を行い、遺体を荼毘に付すことで、悲しい、寂しい現実を受けられるようになります。
 阪神大震災では歯科医が遺体確認のために活躍しました。歯の治療歴から本人を特定したのです。東日本大震災では歯科医に加えてDNA鑑定が力を発揮しています。それでも行方不明のままの方々が1600人以上います。死者が遺族のもとへ帰ることは我々日本人には大切なことなのです。生活の基盤である家族を失い,帰るべき家も流され、よりどころであるコミュニティーもずたずたになり、復興計画も遅々としてなかなか進まない中、行方不明者を持つ家族の深刻さを思います。
 被災地から遠く離れた地域に住んでいる者として直接的なことは何も出来ないのかもしれません。しかしこの記憶を私達が繰り返し思い起こすことで天災への準備が出来、安心安全を手に入れる、また似た体験をした時にお互いが助け合い、理解することができれば、大難を小難に変えることも可能になって来ると思います。この努力をあたかも自分のこととして考え実践する時に主からの流入が豊かに働くことになり、隣人愛を実践することに繋がります。 
2013年9月1日(日)牧師 國枝欣一

 8月15日敗戦の日に思わされたことがありました。この大戦による死者は300万人にも及んだと言うことは知っていましたが、そのうち200万人は敗戦1年前の戦死者の総数だと知りました。それが事実とすれば日本の指導者達は国家、国民のことをどれほど考えていたのだろうかと思います。戦争を始めなければ成らない事情もあったことでしょう。しかし戦いを始めたら何時終えるのかを考えることが指導者の役目ではないでしょうか。
 アメリカ、イギリス、ソ連のトップが集まったヤルタ会談(1945年2月)の情報は早い段階で日本の武官は得て、ソ連が参戦することを知り、それを暗号電文で日本に送りました。しかしその電文は行方知れずとなりました。天皇にも、内閣にも報告されませんでした。結果として8月に入り、沖縄の米軍が上陸、広島、長崎への原爆投下、ソ連の宣戦布告を受け、満州で、沖縄で、長崎、広島で多くの非戦闘員、一般市民の方々が亡くなりました。   歴史に「もし」と言う言葉はないということは知っています。しかし歴史の研究者たちの努力でその間の事情が少しづつ明らかになって来ています。
 上記情報の下に日本が敗戦を受け入れていたら、200万人のうちのかなりの数の人々の命は救えたはずです。これは日本の組織の体質だと言うことを知って、私達はどうすべきかと考えることが必要ですが、戦後もそうしたことは問わず今日まで来ています。
 何が真理であり、何が愛なのか問うことも実はこうしたことに深く関係しているように感じます。教会がどうしたら地域のものとなるのか、災害に備えることが何のために役立つのか、今まさに私たちが抱えている解決すべき課題に関して傍観者にならないで心を開いて話し合うことそれが実は一番大切なことなのではないかと思います。発想は大きく、しかし現実なことにはその地域性、個別性を持った形で考え合っていくことこそ何よりも大切だと感じます。
2013年8月25日(日)牧師 國枝欣一

 今年の私の夏休みの三分の一は教会の本の整理に当てられました。多分60年間整理されてこなかった本の山ですから一週間朝から晩まで整理に取り組んでもまだまだ残りは沢山あります。それでも礼拝堂脇の部屋は、教会員の力添えもあって、何とか使える形になりました。感謝なことです。どうにもならない古い本やパンフレット、印刷物はダンボールに詰めて資源ゴミに出しました。不要な本もダンボール7箱ほどあるのでブックオフに16日に来てもらい引き取ってもらいましたが、引き取ってもらえたのは僅か36冊のみでした。
 ブックオフという会社は今日様々な面から取り上げられる企業でもあるので、興味を持って本の査定の仕方を見ていました。古本屋さんという今までのイメージは本の価値を良く知っている人で幅広い知識を持っている人と言うことから老年期に入り始めた人というものでしょうが、来てくれた人は30前と思われる若い人でした。彼は本の題名や著者などには目もくれません。本の見る場所は本の上辺の汚れ具合だけです。
 15日夕方遅くブックオフに行き古本の引取りについて訊きに行きました。お店の前には自転車が14,5台並び、店内には20人くらいお客がいました。古本屋さんにこれほどお客が集まっているお店は殆どないでしょう。店員も若い人ばかりです。確かにお店に活気があり、本も売れているのでしょう。私もかってきれいな定価2500円の本100円で買ったことがあります。
 20年以上本棚に置かれた本は日焼けしたり、ほこりをかぶっていたりします。顧客のニーズに合わせることで商売が成り立つと言うことも大切な視点だと思いますが、価値が外面のみによる事に関してはとても考えさせられました。そのものの<いのち>使命が軽んじられている私たちの今と言う時代を目の当たりにされた感じがしました。  
2013年8月18日(日)牧師 國枝欣一

 私は移動のために最も多く使う交通機関は自家用車です。18年同じ車に乗り続けていてその走行距離は40万キロを越えました。ただ環7より内側、すなわち都心へ近いところへ行く時には公共交通機関を使います。多くの場合それの方が早いし、ストレス(駐車場を探すこと、車の数の多さから来る注意力など)が少ないからです。私は新宿や渋谷の雑踏が苦手です。自分が缶詰のシーチキンになったような感じがするのです。
その いつも感じるシーチキンの缶詰感は何処から来るのか探って見ました。そうしたらありました。もう50年も前のことですが、当時行き始めた私の教会のすぐ隣のブロックから始まる横浜寿町のドヤ街での経験です。当時は高度成長期で横浜港は輸出入の貨物でにぎわっていたのですが、その荷捌きはここにいる単身労働者によって担われていたのです。僅か800mx400mという狭い地域に2万人近くの人が住んでいました。多くは単身者でしたが、家族もいないわけではありませんでした。地域の学校の児童の20%はこの街から通う子供たちでした。街の喧騒、落ち着きのなさ、街の臭いと共にそこでの経験がよみがえって来ました。
缶詰のシーチキンはここから来る私のイメージなのです。自然は無く、人口の構造物ばかりです。もちろん新宿にしても渋谷にしても清潔であり、美しく飾り立ててあります。でも一皮むいたら50年前のドヤと同じだという感じが私の中にあるのです。そこでは人間が尊厳を持って生きることが難しいと言う側面があります。すべてがお金と言う物質によって量られる世界です。
今週はお二人の方を病院に訪問させていただきました。<いのち>を考えさせられる空間のすぐ隣にすべてが物質と思える空間があることに気づかされそこで戸惑っている自分がいることを発見しました。そして疲れている自分を発見し癒さねばと思わされました。
2013年7月21日(日)牧師 國枝欣一

 私がこの18年間ずっとしている「種まき」があります。聴くことが出来る人を育てることがそれです。この種まきの結果の一つが横須賀市の社会福祉協議会のボランティア部会から講師依頼という形で現れました。横須賀市では市民の様々な要請に応えるべくボランティアを募集しているのですが、いざボランティアの場面になると戸惑うことが多いので教えて欲しいというのです。この人々の中に10数年前衣笠病院のホスピス開設に伴うボランティア講座への参加者が二人いました。15年以上前に教えた看護学生が認定看護師へと更に自分をキャリアアップさせるために看護協会の養成講座に来て認定看護師となってホスピスで働いています。
 このように種まきしてきたことが少しずつ芽を出し収穫へと近づいて来ています。ありがたいことです。聴くという言葉の中には「従う」という意味があります。「ハイ、皆さん聞いて!」と先生はよく言いますが、これは「私に従って」といっているのと同じです。この世的には親の言うことを聴き、教師、上司、同僚、仲間,友人の言うことを聴くということですが、それは内的には主(神)のみことばを聴くということと同じです。なぜならば相手の中に働いておられる主の働きを聞くことと同じだからです。
 この世の人のことばを聞けない人が、主のみことばを聴けるとは思いません。他人のことばを聴くということはそれに従うということだけを意味するわけではありません。相手の言っているように受け取ることなのです。しかしこれが難しいのです。それにも拘らず誰も教えてくれません。
 究極的にはみことばを聴ける人に私自身が成長し、周りの人々をそこに巻き込むことが目的で、そこに新教会が出来ていけばよいと考えているのです。まだまだ先は遠いというのが現実ですが、こうした種まきの結果があちこちで起こってくると「神様、ありがとう!」と言いたくなります。「種まき」はまだまだ続けなくてはなりません。
2013年7月14日(日)牧師 國枝欣一
神から発出しているものは、愛と英知です。それらは自然界の太陽の熱と光に相応しています。天界の天使は太陽の熱と光を受けるように、愛と英知を受けています。その愛と英知を受けた天使は、善と真理に基づいて行動を起こします。そして神の似姿としての人間に基本的に与えられているものは、自由選択の意志と合理性または理性です。そして自由選択の意志は神の愛を受け止める受け皿であり、合理性や理性は神の真理を受け止める受け皿であるというのがスウェーデンボルグの教えです。
この受け皿である意志と理性を使わないで自分の人生の経験にのみ頼っていると人は生活の中に困難を抱え込みます。それを心理学的にはUnfinished Businessと言いますが、過去の出来事が完了しないまま心の中に残っていると思わぬ時に出てきて私たちの生活を苦境に陥れさせます。
先週40過ぎの女性が混乱して教会にお見えになりました。自分は友達が多い方と見られているけれど、いつも相手に合わせていて楽しんでいない自分がいると言っていました。「何が相手に合わせさせているのですか?」とお訊きすると、「良い人と思われたいから。」と言う答えが返ってきました。そして「小さかった時からいつもいい子を演じていた」とも言われました。
彼女は神の愛の受け皿であり、私たち一人一人に与えられている賜物、選択の自由の意志を使っていなかったのです。
その結果、混乱状態に見舞われていました。しかしお話しする中で彼女は落ち着き、選択する意志を取り戻しました。いい子を演じることは彼女が小さかった時には大人の愛を得るために有効な方法でした。大人になった今はあたかも自分でするように責任を持って選び取らなければなりません。それが腑に落ちるように分かった時彼女はいい顔をして帰ってゆきました。
2013年7月7日(日)牧師 國枝欣一

コミュニケーションにおいて、私達は様々なことを相手に投げかけています。それを称してStrokeといいますが、そのストロークには大きく分けると直接相手の体に触れる身体的なものと、言語的即ちことばによるものと、心理的なものがあります。身体的なものとしては、握手する、ハグする、マッサージすると言うようにされて心地良いものと、殴る、蹴る、つねるなど、されるといやなものがあります。言語的なものとしては、挨拶する、褒める、頑張ったねとか、良くやったね、と言うように心地の良いものと、馬鹿、ブス、早くしなさい、汚いなどと言うように心地の悪いものがあります。心理的な心地の良いものとしては、微笑む、視線を合わせる、頷く、相槌を打つなどがあり、その反対のものは、無視する、聞こえない振りをする、眉をそばだてる、にらむなどが上げられます。
 受け取って心地の良いものを+とし、心地のよくないものを-とするならば、人間は誰でも+のストロークを受けたいと思っています。+のストロークをもらいたいのに現実には私達は-のストロークをより沢山もらってしまっているように思います。ところが+のストロークを沢山出せる人は、沢山の+のストロークを受けることが出来るという心理学の法則がここでは働きます。
 ところがここでもう一歩前進し、+を出せる時、私達の霊は天界の天使たちと交わっており、-を出している時は地獄の悪魔たちと交わっていると気づけば、実は霊的なことがそこに常に働いていると思えます。私たちの霊的な成長のために、+のストロークを沢山出せるように心掛け、実践することが、この世の教会作りに必要不可欠なのだということが分かると思います。その人の善いことを見出す目は霊的な目です。その目で見たことを+のストロークとして相手に伝えてあげられるようになると、自分のうちなる教会も相手の内なる教会も成長し、この世の教会もしっかりしてきます。
2013年6月30日(日)牧師 國枝欣一

コミュニケーションにおいて、私達は様々なことを相手に投げかけています。それを称してStrokeといいますが、そのストロークには大きく分けると直接相手の体に触れる身体的なものと、言語的即ちことばによるものと、心理的なものがあります。身体的なものとしては、握手する、ハグする、マッサージすると言うようにされて心地良いものと、殴る、蹴る、つねるなど、されるといやなものがあります。言語的なものとしては、挨拶する、褒める、頑張ったねとか、良くやったね、と言うように心地の良いものと、馬鹿、ブス、早くしなさい、汚いなどと言うように心地の悪いものがあります。心理的な心地の良いものとしては、微笑む、視線を合わせる、頷く、相槌を打つなどがあり、その反対のものは、無視する、聞こえない振りをする、眉をそばだてる、にらむなどが上げられます。
 受け取って心地の良いものを+とし、心地のよくないものを-とするならば、人間は誰でも+のストロークを受けたいと思っています。+のストロークをもらいたいのに現実には私達は-のストロークをより沢山もらってしまっているように思います。ところが+のストロークを沢山出せる人は、沢山の+のストロークを受けることが出来るという心理学の法則がここでは働きます。
 ところがここでもう一歩前進し、+を出せる時、私達の霊は天界の天使たちと交わっており、-を出している時は地獄の悪魔たちと交わっていると気づけば、実は霊的なことがそこに常に働いていると思えます。私たちの霊的な成長のために、+のストロークを沢山出せるように心掛け、実践することが、この世の教会作りに必要不可欠なのだということが分かると思います。その人の善いことを見出す目は霊的な目です。その目で見たことを+のストロークとして相手に伝えてあげられるようになると、自分のうちなる教会も相手の内なる教会も成長し、この世の教会もしっかりしてきます。
2013年6月23日(日)牧師 國枝欣一

私達は、他の生き物の<いのち>をいただくことで命を永らえています。しかしスーパーのプラスチックのトレイに乗っている肉や、魚からいのちを感ずるのは難しいと思います。それでも健康志向もあって家庭菜園を持っていたり、マンションのベランダなどではプランターに種をまいて野菜を育てているなどと言う方もいるのではないでしょうか。 でも<いのち>って何でしょうか。私達は食う食われる関係の中で頂点にいます。ですから<いのち>の連鎖の中にいるわけですが、その私達は今、二人に一人が癌になると言われ、三人に一人は癌で死んでいます。すると食う食われると言う関係で頂点にいるのは人間ではなく癌なのでしょうか。
それでも<いのち>はさずかりもの、すなわちプレゼント、与えられたものであって、私たちが造りだせるものではありません。プレゼントされたものでありながら、「これがそれです。」と言って見える形で差し出すことが出来ません。<いのち>は物質的なものではなく霊的なものだからです。
その霊的なものが見える形で現れるのは、どんな時でしょうか。それはその人の行為によってです。行為は、その人の愛、すなわち意志と、理性すなわち合理的な考えの結果現れてくるものです。スウェーデンボルグは「信仰は生活である」と繰り返し述べていますが、上記の考え方を踏まえて考えてみると、その人の愛が神の愛と繋がっていればおのずとその人の行為は神の愛のこの世に現れた一つの行いと見ることが出来ます。
<いのち>の連なりとしての"私"の存在を考える時、すべてが祝福されている、たとえどんな苦しい状況に置かれていても私達はひとりでない。つながっていてそれでOKなのだということが分かります。ですから日常の食事も作ってくれたパートナーに感謝することを通して実は神に感謝することをしていることに気づかされます。そこに「信仰は生活である」と言う教えが、生き生きと真実だと迫ってくるように思います。
2013年6月16日(日)牧師 國枝欣一

このところ 重い電話が立て続けにかかって来ています。人生の重みに押しつぶされそうになりSOSの電話です。SOSは救難信号ですが、それは何の略語かと言うと、"Save Our Ship!"とか"Save Our Soul!"とかいいますが、はっきりしたことは分からないようです。しかしこのところかかってくる電話はまさしく"Save My Soul!"(私の魂を救って!)と言う必死の叫びです。
それぞれが癒しがたい深い傷を持ちながら必死に生きてきているのに、その上に更なる困難が襲い掛かり、生きているのが不思議と言った状態です。Save My Soul!と言う必死の電話です。深い傷であればあるほどそれを当事者は表現できなくなっています。相談する相手はいなくなり、その苦悩はますます深く、深刻になり、社会から切り離され孤独になっていきます。
 知的レベルや経済的レベル、生活レベル、信仰の有る無しに関係なく、こうした魂の危機はいたるところで起こっています。外面的な状況から判断できません。神の働きや仏の慈悲にすがると考える力もなくしています。まさに四面楚歌、五里霧中と言った感じで、それぞれの人が孤立化しています。
 援助をする方は大丈夫かと問うと、援助者もまた深く傷付いていることを発見します。祈りの時間が長くなってきます。お一人お一人のために祈り、自らのために主に訴え、祈ります。「主よ!私の魂を救ってください。」と。マザーテレサはインドの路傍に倒れている人の中に主を見て、主を助けざるを得なかったといっています。しかし、そういえるようになるためには手放さなければならない多くのものがあることを見出します。助けを求める声はか細く弱いです。耳を澄ませてその声を自分の内、外に聴いてみましょう。そして自分もSOSを発信している者として人々とのつながりを回復し、共に祈りを奉げることができるようになりましょう。主のみ力が現実のものとなり、私達は謙虚さの上に力を発揮できるようになります。  
2013年6月9日(日)牧師 國枝欣一

「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、都の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る」(黙示録22章3.4節)ここの内的な意味は、真の新教会の中には神から離れている人間は一人もいない。主が治められているので、皆、主と 「結びつき」、主と「共にいる」と言うことです。これは霊的世界の話です。自然界の私たちとは大きく違います。
この「結びつき」と「共にいる」と言うことがどうして起こるのかと言うと、それは非常に具体的です。すなわち自分を深く見つめて、自分の中にあるさまざまな悪を見出し、それを主の前で認め、告白し、そこから遠ざかり、悔い改めることです。こうすることによって主によって遠ざけられるのです。このことを人間はあたかも自分自身で意志し、自分で行わなければなりません。なぜならば、人間は それを主によって行っていると感じられないからです。
その理由は、主との「結びつき」は相互的になされなければならないからです。主はいつも人間と結びつこうとされていますが、自分の意志で自分の悪から離れようとした時に、主の愛が流れ込んでくるのです。
こうなると一度だけ内省し、告白し、悔い改めればそれで善しと言うことになりません。繰り返し繰り返し自分を吟味しなければなりません。繰り返し内省することで内省の度合いも深くなり、今まで気づかなかったことも発見できるようになります。これが大切なことのように思います。私達は気づいていない自分の悪しき物をたくさん持っています。それは「謙虚さ」なしには気づけないものでしょう。
自分を反省し、主を思い、主の前に告白し、私達はそれを意識化することによって、そこから離れることが出来ます。今週も静かに自らの心の底を見つめたく思います。  
2013年6月2日(日)牧師 國枝欣一

正統と異端と言うことはキリスト教会が始まってからずっと続いている論争です。東方教会といわれる正教と西方教会といわれるカトリックとの争いはやっと今世紀に入って和解と対話が始まったところです。カトリックの歴史は正統を守るために常に異端裁判と言う形で自分たち以外を排除してきました。宗教改革を経てカトリックにプロテストするもの、反抗するものたちと言う意味でプロテスタントが始まり、そこから異端と言わずに教派という言い方が一般化して行きます。それは聖書理解の違いによるもので異端と言わなくなったのです。これが教会の大きな流れです。
 経済や技術の世界ではイノベーション(新機軸)と言う表現のもとに、企業の活性化が行われています。それは今までの技術を土台にしつつも全く新しい方向性を持って企業を再生させる考え方ですが、宗教の世界は遅れており、私たちの意識の中にはまだ正統と異端を考える傾向が残っています。あいつは異端だと言っている本人の意識の背後には必ず自分は正統だと言う意識が働いています。それがどんなにおぞましい結果をもたらしているか気づいていないのです。
 正統だと思っているときに私達は大きな落とし穴に落ち込んでいることに気をつけましょう。平生は愛を説いている牧師も簡単に差別者になることがままあります。太陽はすべての者に光と熱とを降り注いでいるように、私たちの主もすべての教会に愛と真理を降り注いでいおられます。それを受けるか受けないかはその人の愛の傾向がそうさせているのであって、主がそうされているわけではありません。
 それぞれの役立ちの違いを充分認識すればそんなことは起こらないと思うのですが、私たちの無知が異端と言わせ、差別を生み出していると言うことを考えると、常に謙虚さを持って相手をよく知る努力の大切さを思います。  
2013年5月26日(日)牧師 國枝欣一

YMCAで働いていた時のことです。YMCAでは毎年何人もの外国人講師を雇います。そのための世界的な組織も出来ていて20代30代の若者がそれぞれの国で応募をして選考され各国へ派遣されます。その中にイギリスから来た女性英語講師がいました。彼女にとって日本人を教えることは初めての経験でした。学生は行儀よく静かに講師の話を聴いているように彼女には思えました。しかし学生たちは殆ど何も理解していませんでした。彼女なりに努力しましたが上手く行かず、パニックになってしまいその講師を支えると言うことをしたことがありました。
アメリカでの授業はいつも対話形式の授業でした。先生方は学生と対話しながら講義を進めていきます。日本人の私はその対話や討論の輪に入っていくのに苦労しました。自分を表現しないとその存在を周りから認めてもらえないのです。
 私の講演や講座も対話形式で、殆ど講義スタイルのことはありません。対話形式の方が参加者のニーズが分かると言う利点があります。教えるものが黒板の前に立ち生徒と対面する形の授業スタイルは中世の教会から始まったと言われています。今はこの形式に反省が加えられクウェーカー派でなくとも円陣を組む形で礼拝が守られている教会もありますし、牧師と会衆の自由な応答があって礼拝が進められている教会もあります。
 東京新教会は伝統的な礼拝スタイルをとっていますが、礼拝後のお茶の時間を通してそれぞれの方の疑問や考え方を交流しあえればいいなと思います。先週のお茶の時間にはそんなことが起こりました。分からないことは恥ずかしいことではない。分かっている人から聞かせてもらえばよいというリラックスした環境の中でそれぞれの経験が行きかい、自分の信仰を深められたらいいなと思います。こうしたことが起こるのは、相手への信頼感、ひいては主に対する信頼感から出てくるものだと思います。    
2013年5月19日(日)牧師 國枝欣一

連休は如何過ごされましたか。私は前半家族みんなが沼津に集まって子供の家族と共に過ごしました。息子が長野県佐久から静岡県立がんセンターに2年間の研修のため移ったからです。後半は臨床パストラル研修センター主催の講座の講師を熊本で務めました。研修終了後長崎市に足を伸ばしました。ここにスウェーデンボルグ派の教会があることを知ったからです。事前に分かっていた事は住所と電話番号だけでした。行き先はコンピューターで検索してもJrの駅からタクシー12.6キロというだけでした。地図はありますが、目標となるものは何も見当たりません。6日に講座を終えてとりあえずなるべく近くまで行こうと諫早まで行きそこで情報を得ようとしましたが、諫早はまだ熊本県。長崎県に入っていませんでした。次の日早く浦上まで行ってわずかな手掛かりでバス会社に問い合わせやっと行ける目鼻がつきました。
 近くと思われる地点までバスで行ってそこからタクシーで目的地まで行きました。教会は小高い丘を切り開いた新興ニュータウンの一番高いところにありました。隣には寮がありました。代表の方と信者が生活を共にしながら生き方を学んでいくためだそうです。お話では20代でスウェーデンボルグの著作に触れキリスト教主義の学校の教員になられましたが、その教育方針に飽き足らず、辞職して教員仲間と教え子たちで信仰を実践され、神学の学びを深めて来られたようです。
 伝道を一切せず、生活の中で信仰を深めることにつとめたそうです。静思社、アルカナ出版もご存知でしたし、新教会と言う雑誌も読まれていたこと、土居米造牧師に関してもご存知でした。人知れず信仰を守って来られたその姿勢に新井奥邃を見るような感じがしました。ですからここに教会名も代表者名も書きませんが、ひっそりとしかし確実に40年以上もその思想と信仰を伝えておられる集団があると言うことを知り、さわやかな気持ちで長崎空港から帰ってきました。主に感謝! 
2013年5月12日(日)牧師 國枝欣一

私達は同じことを経験しても正反対の理解をすることがまま起こります。後で同じことに出会ったのだから同じような感想を持っているだろうと思うとあまりの違いに驚かされることがあります。こうしたことが起こるためには様々な原因が考えられますが、ここではスピリチュアルな観点から考えてみたく思います。
 心理学的には その人の過去の経験があってそれを下に事態を観察するので、その事態に関する感想はいわば鏡に映した自分を見るようなものだといいます。スピリチュアル・霊的な観点では人は肉体の中にいるとき、本人はそれと自覚できないが常に霊と交わっており、霊から影響を常に受けているといいます。
 ですから同じ事態に直面しても、彼なり彼女なりがどんな霊と常日頃から交わっているかによってその事態の解釈が違ってくるのだと言うわけです。私達はクリスト教徒ですからどんな天使と交わっているか、どんな悪魔と付き合っているかと考えるわけです。天使を通して私達は主から流れ込んでくる天界の流入を受け、それが私たちの生活の場面場面に影響を与えているのです。人間は学ぶことによって天使の持っている知識に匹敵するほどの知識を持つことは努力すれば可能です。しかしその知識がこの場面で大切かどうかを決めるのはその人の愛の傾向です。
 ということになると私たちの愛をどのように育むかと言うことがとても重要になってきます。ですから同じ経験をしても人によってまる反対の結果が出てくると言うこともその人がどのような愛の中に生きているかと言うことの結果なのです。愛を育むことはとても難しいことです。知識で育てることは出来ないからです。日々の生活の中で私の意図や願望欲求と言うものがどこから出て来ているのか見つめることです。その時はじめて悪しき愛から離れられます。そして、主から天界を通して流れ込んでくる愛を受けることが出来るようになります。
2013年4月21日(日)牧師 國枝欣一

先週、ホームページの威力を感じさせられる場面を二回経験させられました。一度目は本日洗礼を受ける佐藤寿子さんの例です。二番目は入門講座の参加者たちでした。佐藤さんは30年も前に新教会の教えを学び既成の教会の礼拝に参加していながら新教会の信仰を維持してこられた方です。洗礼を今行っている教会の牧師さんに勧められてやっぱり新教会で洗礼を受けたいと思ってネットサーフィンをして東京新教会を発見しました。入門講座では様々な職業の方が、単なる傾聴ではなくもっと深い援助をしたいと思って検索をかけて入門講座を見つけ出し、応募をしてこられました。発達障害、難病を患っておられる方も来ておられました。それぞれが魂の救いを求めているのです。
 求めている人々、特に50代以下の人々は学校でコンピューター学んでいるので生活で必要な器具として大いに活用されていることがわかります。東京新教会では、高田悠さん、斉藤洋之さん、和田明咲子さんの協力でHPが毎週更新されています。しかしこれでいいのかと言う課題は残ります。魂の救いを求めている人々の飢えや渇きに応えられているかと考えるとまだまだ改善の余地はあるように感じます。
 新教会の教えはこうした人々に応えることのできる力を持っていると思います。それを発信で来ているかどうか検討が必要かと思っています。情報格差ということが言われますが、コンピューターを扱えない人にも、扱える人にも福音を伝える術はもう在るのですからそれらをどのように使いこなすのかが問われているように思います。カトリックが母体になっている入門講座ですが、あそこにあるものは新教会という感じがします。本家の私たちがもっと真剣に考えねばと思わされた先週でした。
2013年4月14日(日)牧師 國枝欣一

親子であっても、仕事仲間であっても、趣味の仲間であっても、善意で言ったことが相手に間違って取られてしまい思わぬ誤解を受けると言うことは誰にもあることではないでしょうか。言った本人は予想外の反応にあわてます。時にはそれで人間関係が徹底的に悪くなってしまうこともあります。どうしてこういうことが起こるのか 考えてみたいと思います。
 このような事態に直面した時、私達は自分はそんな意味で言っているのではないのに、悪意で受け取る相手が悪いと思ってしまいがちです。しかし過去と相手は変えられないという原則があります。とすると変えられるのは、現在、未来と自分です。誤解されている現在を変えるためには、相手に直接会い自分の真意を伝えることが考えられます。そのためには勇気とエネルギーが必要です。
ところがそうすると、相手が自己弁護していると非難してくることがあります。そうじゃないと言っても相手はそう思い込んでいるのでここで幾ら説明しても良い方向には行きません。論理で説明することは有効ではありません。相手は傷ついているのです。傷つくと言うことは論理ではなく感情です。相手が傷ついていると言うのは真実ですから先ずそれが本意ではないとしても受け入れることが肝要です。自分の怒りや落胆、悲しみなどを受け入れられた、理解されたと相手が感じてくれたら解決への糸口がつかめます。
 もう一つは自分の何が相手を誤解させたか振り返ることです。これは一人では難しいこともあります。その場合には他の誰かに話を聴いてもらうことです。自己弁護したがる自分が常にいます。それを抑えて他の人の言葉を聴くとき、しばしば自分の気づいていない自分の言動が誤解を招いていると言うことに気づかされます。その場面では主が確実に働いて下さっていることを感じます。同時に「我」をなかなか手放せない罪深い自分をも発見します。 
2013年4月7日(日)牧師 國枝欣一

自分が気にしていることは自分の愛の傾向を示しています。若者が恋に悩むのは相手を愛しているからです。これは誰でもわかります。お昼になって牡蠣フライが食べたいと思うことはその人が蠣を好んでいることを示します。妻が夫と上手くいかないと悩むことは上手くいかないということへの注目度が高いと言うことを示しています。夫が妻に不満を持つならばその不満の種をいつも注意していると言うことを示しています。友達と上手くいかないで悩んでいる時その人は上手くいかないことをいつも気にしているのです。そこに注目している{私}がいるのです。
それらはみなその人の愛の傾向、情愛を示しています。情愛は意識ですからその人を苦しめるのはその対象(人、物、事柄など)ではなく、その人の意識だと言うことがわかります。意識だと言うことはその人の愛の傾向を示しているので、その人の愛の傾向がその人を苦しめると言うことになります。この苦しみから脱却する修行が座禅であり、その結果が悟りを開くと言うことになります。
悟りを開くと言うことは簡単に言えば「在るものを在る」と認めることです。私達はこの「在るもの」をあると受け入れがたいのです。受け入れられなくさせているものがその人の愛の傾向、情愛であり、その人の意識です。ですから私たちを苦しめる様々なことは実はその相手ではなく私の意識なのです。その意識が変わることが視点を変えることです。
意地悪をされて傷ついていた人が、その人の意地悪の背景にまで視野が広がると、今までとは違ったものの見え方がします。その見え方は傷ついて苦しんでいたその人を解放します。それを私達は主からの流入、聖霊の働き、復活の主の支えと言ったりします。新教会の教義を知っていようといまいと、主は万人に働いてくださいます。私たちの意識の向く方向を変えるだけで、私達は主の臨在を実感できます。解放されます。難しい事ではないのです。
2013年3月31日(日)牧師 國枝欣一

来週は復活祭、イースターです。この時期になると私はボストンでの春を思い出します。庭には雪の間に所々黒い土が見え始めます。川辺の柳の枝が赤みを帯びてきます。庭にはクロッカスが咲き始めます。朝になると霧が発生することが多くなります。いのちが一斉に動いているのを感じます。日本ではふきのとうが芽を出してきて、私は毎年ふき味噌を作ります。これからは山椒の新芽が芽吹いてくるのでそれを摘み山椒味噌を作ります。春は味覚を通してもやってきます。
 冬の寒さの中でふきのとうが固い芽を出してきます。寒さの中では何日も何日も固い皮で覆われた芽は動きません。山椒も固いとげのような芽を動かしません。でも時が来るとふきはむくむくと大きくなり始めます。その成長の度合いは目を見張るほどです。山椒の芽も同じで小さな緑の葉を出し始めると1日1日と変化してゆきます。
 教会の庭にも一定のリズムで花が咲きます。その順序は毎年同じです。山茶花が咲き、紅梅が咲き、椿が咲き、白梅が咲いて、山吹が咲きます。そこに神の働き、摂理を見ます。いのちの再生、復活を見ます。忙しさに心を奪われているとそうしたことに気づきませんし、主が共に歩んでくださっていることに気づきません。
 相応と言う考え方を習慣的に出来るようになると主の存在を身近に感じられます。自然界と霊界とは相応によって繋がっていると言うのがスウェーデンボルグの教えです。今年は桜がもう満開に近いです。春を充分堪能しながら主の働きに触れてみたいものです。日本は地政学的にも恵まれていて神の働きをその気になればいたるところで見られるとても良いところに私達は置かれていると感じます。大いにこの季節を楽しみましょう。
2013年3月24日(日)牧師 國枝欣一

再来週はいよいよ復活祭イースターです。主は三度も自分は困難に出会い、逮捕されて、挙句の果てに殺されて、三日目に復活されるとお弟子たちに話されました。でもご自分の近くにいるお弟子たちさえその真意を理解できませんでした。最も近くいる人さえ理解してくれない状況、それは夫が妻の苦しみを理解しない、職場で上司や同僚が自分の真意を理解してくれない、ご近所が我が家の事情を温かい気持ちで見守ってくれていない状況における私の置かれた状態と、実は重なることではないでしょうか。
 このように考えてみると主の死と復活ということがすごく身近なこととなってきます。先週ご自分が重い病に陥った経験を話してくださったご夫人にお会いしました。家族は自分の悶々とした気持ちをわかってくれない。将来に不安を持っていることを分かち合えない。そんなことを話すと家族はすぐ話題を変えてそうした話をしたがらない。皆善意でそういってくれているのは解っていたけれど理解されない孤独の中にいて辛かったと話してくださいました。
 しかしここで話は終わりではありませんでした。「でもね、」といって一呼吸置いて、「これでイエス様の本当の友達になれたって思ったのよ。」と言われました。その理由は「『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ、わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのか』、わたしはイエス様とやっと同じ気持ちになれてうれしかったの。」というのです。
 それを頭の理解ではなく、本当に実感したのだろうなとわかる表情で話されました。重い病と理解されないと言う絶望感、孤独感の中にあって、主と出会ったのです。主はどんな時にも近くに居てくださる。自分の心さえ開けば主は私たちの所へ入って来て下さる。あらためてそうしたことを感じさせてもらえる良い出会いでした。彼女は健康を回復されて今は介護職の仕事に関わっておられます。 
2013年3月17日(日)牧師 國枝欣一

コンピューターができて私たちの生活は大きく変わりました。わたしのようなアナログ人間でもコンピューターなしでは生活できない程です。この礼拝のプログラムもコンピューターがあって可能な産物です。わたしの子供のころはご飯を炊くのにかまどでマキを燃やしながらお釜で炊きました。その結果キャンプをして飯ごうでご飯を炊くのも上手かったです。今は炊飯器がすべてを調整してくれます。1合の米を炊くには鍋で炊くほうが早く簡単です。しかし40代のお母さんにはこがさないでおいしく炊ける技術はありません。
 科学の進歩は 私たちの生活を便利にしてくれましたが、機械を扱う私達は不器用にどんどんなって行きます。明日は震災から2年目ですが、電気が使えないガスが使えないとなると都会では特にお手上げです。東日本大震災で孤立した地域がいくつもありましたが、町村合併で大きくなった町ほど混乱が大きく、合併を拒んだ入り、地政学的、経済的に合併が困難であった地域ほど震災に強かったという報告がありました。
 そこには強固なコミュニティーがあり、老人の知恵と経験がありました。その結果何日も孤立していてもそうした部落は安定度が高かったといわれています。東京のような大都市で震災が起きたらどうなるでしょうか。他の地域に比して圧倒的に便利に出来ている地域ですが、人々のつながりは薄く、コンピューター制御された様々な機器によって成り立っています。老人の知恵や経験が生かされるようには出来ていません。
 今年度教会では震災計画が話し合われましたが、それをもう一歩進めて自らの教会の機能を維持するだけでなく地域にどのように奉仕できるのか考えを進められると良いと思います。主への愛と隣人愛を具体化するために小さな教会として何が出来、何が主から与えられているのかもう一度わたしたちを点検したいと思います。新たなる使命がそこから見えて来るように思います。主よみ心を聴く耳を与えてください。僕は聞きます。
2013年3月10日(日)牧師 國枝欣一

教会の庭は春になると紅梅が先ず咲き始めます。今は紅梅が満開です。そして3月1日に春一番が吹きました。水槽のメダカは卵を産み始めています。<いのち>の再生の時です。カトリックにはイエスの道行きという施設があります。広い敷地を持つ教会は敷地内に主の復活までの過程を絵にして道の途中に掲げています。礼拝堂の柱に主のそれぞれの試練が描かれている場合もありますし、アラビヤ数字で示されていることもあります。今週は受難節の第3受難週なので、カトリックの神父さんはその柱の前に行って祈りを奉げた後にミサを始めます。
 私たちの教会をはじめプロテスタントの教会にはそうしたものはありません。私たちも自分達の信仰を成長させるために取り入れても良いと私は考えていますが、その理由はみことばが視覚化されて理解しやすいということと、そこから内的な意味を把握しやすいという側面があるからです。絵を見て文字上の意味はこうなのだと理解した上で、そこから内的な意味を探っていくことは充分に可能だと考えられるからです。
 私達はスウェーデンボルグの著作を手引きにしながらその内的な意味を把握していきます。その過程で知的にのみ理解して、結果としてはスウェーデンボルグの意図から外れて、知的に理解することと信仰を混同してしまうことが頻繁に起こっているように感ずるのです。それが私たちの陥りがちなところです。
 イースターを前に私達は特に主の試練と関連させながら、私たちの中にある悪に注目して、そこから離れる努力が必要です。あたかも自分自身でするように一生懸命に自身の悪を見出すときに、主からの流入が働くというのがスウェーデンボルグ教えです。みことばを読み霊的な意味を把握して自らを省みる時に、主が働いてくださいます。だから困難と思えるような課題にも私達は直面できます。この期間それぞれの人生を振り返ってみませんか。
2013年3月3日(日)牧師 國枝欣一

気づきという言葉は主に心理学の分野で多く使われる言葉ですが、気づきのレベルは様々です。深いレベルでの気づきは心理のレベルを超えて宗教的な霊的なレベルにまで達します。トランスパーソナル心理学の分野は現在のところまだ玉石混交といわれますが、それでも宗教の教えと重なるレベルまで来ています。
 先週、聖霊によるバプテスマを私たちの人生の中で繰り返し受ける必要性をこの欄に書きました。聖霊によるバプテスマは私たちの深い所で起きる人生を根底から作り変えてしまうような経験です。それは知的な理解を超えて腹の底から突き動かされるような体験です。それは学校で算数を学ぶように、習熟することによってだんだん解って来るようなことではなく、突然襲ってきます。
パウロの体験した回心はその典型的なものですが、私たちにはパウロの回心のようなことはなかなか起きるわけには行きませんが、当たり前と思って来たことの中に主の働きを感じられ、それは恵みなのだと感謝できる時に、私達は聖霊のバプテスマを受けることになります。それは私たちの思考の硬直化を破壊することであり、生活の柔軟さを取り戻すことでもあります。
思考の硬直化は老人特有のものですが、それは老人の占有物ではなく、年齢に関係なく「我」に固執することによって生じます。この「我」を手放し、主に私を委ねる時、はじめて思考の硬直化から解放されます。とは言うもののこれを自分のこととして取り組むと、「我」を手放せないでいる自分がいて、なかなか自由になれません。自分の中にある深いものに気づけは気づくほど任せ委ねられていない自分を発見し、途方にくれるような体験をします。「主よ、来たりませ!」と願って止みません。
2013年2月24日(日)牧師 國枝欣一

私たちの新教会は聖典ではない聖書の箇所を読むことが少ないと思います。しかし内的な意味を持たないといってどうでも良い文書ということにはなりません。やはり信仰の先達が書き残したものとして学ぶところが沢山ありますし、考えさせられることが多々あります。
 新教会に属する私達は聖書の内的な意味をスウェーデンボルグの著作を手引きに把握することができますが、他の人々はパウロ書簡などを通さないと信仰の中核部分を把握することが難しいと思います。
 先週は 預言、異言、聖霊によるバプテスマに関するテキストを3冊ほど読みました。聖霊によるバプテスマは私たちの霊的成長には欠くことのできないものですが、新教会の信仰があまりにも知的になり、著作に詳しくなることが信仰の成長のような勘違いが時々起こっているような事態に接し、コリント人への手紙などパウロの書簡を読んでみました。
 読んでみると初代教会の人々は使徒行伝のペンテコステの日にお弟子たちが聖霊を受けただけでなく、いろいろな場面でいろいろな国の人が聖霊のバプテスマを受けていることが分かります。
バプテスマを一度受けることは新教会への入門であり、天使の仲間になることですが、私達は生涯をかけて再生を繰り返していかねばなりません。そのためには時に聖霊のバプテスマを受け、腹の底から突き動かされるような経験をすることが大切ということになります。それは知的な理解を超えている事実です。復活祭、イースターを控えて、主を求め、主の働きが私たちの周りに満ち満ちていることに気付き、深い感謝に飲み込まれるような体験をしたいものです。自らを省み、主を強烈に求める生活を私たちのものとしたいです。
2013年2月17日(日)牧師 國枝欣一

原発を廃止するか存続させるか国の方針がはっきりしません。福島原発事故の処理もまだまだ10年という単位で続けられるようです。事故で汚染された廃棄物の行き先も決まりません。政府は経済対策で公共投資を大きく組み景気浮揚につなげようとしています。国の借金は膨れ上がりその返済に多額のお金が使われています。
原発事故の後処理にしても、国の大きな借金にしても皆我々の子や孫に付回して行きます。高齢化社会にますますなり、若い人たちの負担は重くなります。私たちの快適さを求める姿勢が子や孫への付け回しの負担をますます大きなものにして行きます。先日麻生副総理が会議で発言した早くさっぱり死にたいと言ったことがマスコミで取り上げられ、非難されました。延命治療は止めて欲しいと言ったのだと思いますが、そうしたことも自由に語れなくなる社会というのは危険だと思います。国の借金にしても、原発廃棄物の処理にしてもそのマイナス面に関して自由に検討したうえでどうするのか決められる社会が大切だと思います。
私は子供たちに胃瘻(いろう)はしないこと、延命治療もしないことを頼みました。食べられなくなって自然に死ぬことが良いと思うからです。また私達は現世だけでなく来世があることを知っています。そして人間は霊でありその霊は永遠であることを知っているので寿命であることを大切にしたく思います。
こう考えると子供や孫、ひ孫が善なる生活をしにくくなるような私たちの負の財産を付け回すことは極力避けたく思います。今の自分の生活が良ければ目を瞑る、変だと思いつつ、責任逃れのための沈黙することを拒否する姿勢を持ちたく思います。信仰は生活することという言葉がありますが、生活の中に善と真理を満たすことで、必然的にこれらの問題に触れることになります。何が真実なのか見極める目を持ちたく思います。
2013年2月10日(日)牧師 國枝欣一

原発を廃止するか存続させるか国の方針がはっきりしません。福島原発事故の処理もまだまだ10年という単位で続けられるようです。事故で汚染された廃棄物の行き先も決まりません。政府は経済対策で公共投資を大きく組み景気浮揚につなげようとしています。国の借金は膨れ上がりその返済に多額のお金が使われています。
原発事故の後処理にしても、国の大きな借金にしても皆我々の子や孫に付回して行きます。高齢化社会にますますなり、若い人たちの負担は重くなります。私たちの快適さを求める姿勢が子や孫への付け回しの負担をますます大きなものにして行きます。先日麻生副総理が会議で発言した早くさっぱり死にたいと言ったことがマスコミで取り上げられ、非難されました。延命治療は止めて欲しいと言ったのだと思いますが、そうしたことも自由に語れなくなる社会というのは危険だと思います。国の借金にしても、原発廃棄物の処理にしてもそのマイナス面に関して自由に検討したうえでどうするのか決められる社会が大切だと思います。
私は子供たちに胃瘻(いろう)はしないこと、延命治療もしないことを頼みました。食べられなくなって自然に死ぬことが良いと思うからです。また私達は現世だけでなく来世があることを知っています。そして人間は霊でありその霊は永遠であることを知っているので寿命であることを大切にしたく思います。
こう考えると子供や孫、ひ孫が善なる生活をしにくくなるような私たちの負の財産を付け回すことは極力避けたく思います。今の自分の生活が良ければ目を瞑る、変だと思いつつ、責任逃れのための沈黙することを拒否する姿勢を持ちたく思います。信仰は生活することという言葉がありますが、生活の中に善と真理を満たすことで、必然的にこれらの問題に触れることになります。何が真実なのか見極める目を持ちたく思います。
2013年2月3日(日)牧師 國枝欣一

先週金曜日、その日の内に仕上げなければならない仕事が7つありました。あれもこれもしなくてはならないと考えるだけで圧迫感とあせりを感じました。圧迫感は気持ちを重くします。焦りによってあちらこちらに気が散り、集中できません。結果としてどれもこれも完結せず結局何も終わらないということになりそうでした。体も疲れてきます。頭もボーっとしてきました。
 そこで、今日しなければならない仕事を書き出しました。相手のある仕事、重要な仕事を考え優先順位を付け、その上で2時間ほど寝ました。起きて出会った聖句が「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイ5:11)というものでした。私自身は迫害されていたり、悪口を浴びせかけられているわけではありませんが、沢山の仕事だけでなく、その背後にあるもの、私に影響を与えているものがあることに気づかされました。
 それらは一朝一夕に解決できる課題ではありません。それらを常に抱えつつ解決できるものは解決し、出来ない課題に関してはそれを抱えながら責任を担っていくこと、その道をあきらめないで探っていくことが、改めて大切であることを教えられました。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」という山上の垂訓が心の中にストンと落ちるように感じられた一瞬でした。
 山積みの仕事が全部出来上がったわけではありません。環境が変わったわけでもありません、仕事量が減ったわけでもありませんが、何よりも変わったのは、そこに関わる私自身の取り組み方が変わりました。「大いに喜びなさい。」という勧めが、わたしにエネルギーを与えてくれました。「安らかに信頼していることにこそ力がある。」(イザヤ30:15) 苦しんだり、悩んだりしている時はどこかで自分の力に頼っていてそれより大いなる者から離れているなと感じさせられた日でした。ありがたいことのあった日でした。 
2013年1月27日(日)牧師 國枝欣一

自分の人生に満足しきっている人というのは案外少ないのではないでしょうか。私たちの多くは自分が抱えている困難を外部の人間に話すということをしないので、他の人々がどんな悩みや困難を抱えているか知らないでいます。多くの人は少年少女期や青年期に希望や夢を抱えているものです。しかし長ずるに従って現実と折り合いをつけていくものです。現実と折り合いをつけて行くという事は、繰り返し挫折することでもあります。でもそれを話し聞き合うということはめったに起こりません。
暗い話を聴くと暗くなる、辛い話をするとつらなくなるという常識を私達は持っています。だから人の集まりや、人との関わりの中で私達は自然にそうした話をしなくなります。人生の末期になると自分の不安や死への恐怖を持ちます。死について沢山の事を知りたいのに、周りの人々は「まだまだ生きるのだから」といってそうしたことを話させてくれません。結果として多くの死に行く人々は課題を解決できないまま旅立って行かれるということが起こっています。
常識は時に課題解決のためには大きな障害となることがあります。上記二つの例は典型的なものですがその結果、人は本音で語り合うことを忘れてしまい、周囲の人と関係が切れて孤独を感じます。旅立って行かれる人も自分の気持ちを語れないままはっきりさせたいことを未解決なまま旅立って行かれる人が結構多くいます。
話を聴いてもらえると実は安心と平安を与えられ、そこに新しい出会いが始まり、満足感を味わえます。互いに本物の自分でいられる心地良さを味わえます。それは命の源に触れることでもあります。本物の自分になり、命の根源に触れることができた時、私達は自我から自由になって委ねるということができるようになります。様々な課題、困難を抱えていることは悪いことではありません。それは霊的に成長するための大切な課題なのです。
2013年1月20日(日)牧師 國枝欣一

ヘルマンハープみどりの会のメンバーの大部分は青山学院大学のキリスト教学生青年会(SCA)の出身者たちです。学生時代から活動的なクリスチャンで、江東区のありの町や、筑豊の炭住でボランティアをしたり、地方の教会を夏休みなどに援助をしていました。彼らは皆現在も教会の中心的なメンバーです。昨年から東京新教会の礼拝を手伝ってくれていますが、様々なところで奉仕もしています。
ヘルマンハープは健常者と障害者のバリアフリーを意図して造られた楽器です。日本に導入されてまだ日は浅いようですが、主婦を中心としてさまざまなグループが全国で活動しているようです。そんな中にあって男性演奏者のいるグループは稀有のようです。また全員が定年をとっくに過ぎている年齢なので、いつでも要望に応じられるという点でも特別なグループのようです。ヘルマンハープの演奏会はもちろんですが、病院や様々な施設、教会での演奏など出番も年間20回はくだらないと言います。
メンバーは北は青森、南は神戸といった具合でバラバラですが、それでも合同の練習は欠かせません。東京新教会も練習会場の一つですが、そんな時みていると、練習は朝10時前から始まって夜8時過ぎまでぶっ通しにしています。70才を目前にした人々の集まりとは信じられないバイタリティーです。
現役時代は、教員、自治体職員、病院職員、保母、大手会社等の幹部だった人々ですが、そのボランティアスピリットは青年時代に培われたものであるような気がします。退職後もこうした活動を通して多くの人々と関わりを持っています。昨年の夏には東京新教会の庭の木々の剪定と掃除もしてくれました。自分の趣味としてだけではなく、それを社会に還元するその企画力と団結力と行動力に頭が下がります。主と共に、主のために働くグループです。
2013年1月13日(日)牧師 國枝欣一

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