教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから

 先週仙台「愛光会」の瀬上正仁さんから小包が届きました。中には森有礼、田中正造、新井奥邃、勝又正三関連の資料がぎっしり詰まっていました。1週間でほとんど読みました。瀬上さんは整形外科の医師ですが、勝又正三のお弟子さんでもあります。上述の人々は皆スウェーデンボージャンですが、私たち東京新教会の人々とは大きく違います。
 東京新教会は皆アメリカのコンベンションの神学校で学んできた牧師たちによって導かれているものたちの集まりですが、森有礼と新井奥邃は、アメリカでT.Lハリスの新生同胞団というコミュニティーでスウェーデンボルグ神学を学んでいます。田中正造は足尾銅山鉱毒事件に関わったクリスチャンですが、晩年新井奥邃の影響を得ています。勝又正三は修験道の修行をした人で仏教と神道を学びスウェーデンボルグ神学と融合させた人です。
 明治生まれのそして士族出身の人々は、例外なく儒教をまなんでいました。孔子孟子をそらんじていました。その人々が幼少のころから親しんできた儒教や仏教、神道とスウェーデンボルグ神学を結びつけるということは不思議なことではありません。それらを徹底して融合することは彼らの信仰を生きたものとしました。
 21世紀に生きる私達は彼らの生活化した信仰から大いに学ぶ必要があります。それぞれの人は命を賭けるようにして信仰を生活化しています。田中正造の晩年に大きな影響を与えた新井奥邃は田中正造の素直さに打たれています。学んだことを即実行し生活を変えたからです。信仰を生きること、それは容易なことではありません。しかしその中で上述の人々はスウェーデンボルグの指し示している霊的な高みへと上っていった人々です。私にとってこれらの資料は大きなクリスマスプレゼントとなりました。私の魂が燃えるような思いをしました。

2012年12月23日(日)牧師 國枝欣一

今まで何度か話したり書いたりしていることですが、人間関係において私達は常に四つの領域に関わっています。それらは①自分に関して他人も自分も知っている領域、自分が公にしている領域。②自分は自分に関して知っているけれど公にしていない領域、秘密の領域。③自分のことであるけれど他人は知っているのに自分では気づいていない領域。いわば癖になってしまった領域。④自分のことでありながら自分自身も他人も知らない領域。いわば神様だけが知っている領域です。それぞれの領域は人によって大きかったり小さかったりし、それによって生きにくくなったり、孤独になったり、必要な時に助けが得られやすくなったりします。
 信頼感がないと 不安が増してきます。ですから②の秘密の領域が大きくなります。人間関係で失敗を繰り返す人は③癖の領域が大きいのかもしれません。これは心理学の理論の一つですが、信仰という観点から見ると、主を愛し、隣人を愛する人は①の領域が広くなります。主を信頼することは常に人を信頼することと繋がってくるからです。信仰は生活であるということはそういうことです。主は信頼するけれど人は信じられないという時は何か解決しなければならない自分自身の課題があると思ったらよいと思います。
 ③の癖になっている領域が私を困難にしている可能性があります。それは他人を通して働く神が私たちに解決すべきことを知らせてくれる領域でもあります。相手のちょっとした反応や言葉が「私」の癖を気づかせてくれます。「私」をいらだてる人は実はイエスさまなのかもしれません。そう思うと私達は自分の言動に少し余裕と落ち着きが出てくるかもしれません。とにかく③の領域に深く気づいていく作業は私たちがこの世を旅立つ寸前まで続く作業のような気がします。今はアドベント、一人一人の教会に純真無垢な主をお招きする準備をしたいものです。

2012年12月16日(日)牧師 國枝欣一

病気を生きる。障害を生きる。困難を生きる。苦難を生きるという言葉を耳にしたことはないでしょうか。それぞれの困難を生きるということはどういうことなのでしょうか。聖書にはそれの最たるものが書かれています。マリアに対する受胎告知(ルカ1:26-38)がそれです。当時の世界では死刑に相当する困難に遭遇することになります。マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」とこの困難を受け入れます。それは想像を絶するような困難です。私達は今日健康であっても、幸せであっても明日には厳しい条件の下に置かれるかもしれません。その「時」は誰も知ることはできません。それを生きると言うことは簡単ですが、いざそれが現実になったら、マリアのようにはできるものではありません。そのマリアにしても現実には様々なs壁にぶつかり、日々が苦難の連続だったでしょう。それを生きることができたのは主に対する絶対的な信頼です。
 ちょっと立ち止まって私たちの生活の中での困難を書き出して見ましょう。そうした困難は10や15はすぐ書き出せるのではないでしょうか。仕事が上手くいかない、家族がギクシャクしている、○○が必要なのにない、何でこんな病気になったのだろう等々と言った具合です。それらを自分以外の他人のせいにしたり、社会や時代のせいにしたりしていないでしょうか。
 このようにしていると、私達はその困難から解放されることはありません。病気を生きる。障害を生きる。困難を生きる。苦難を生きるということはできません。それらからの解放を願う時には知性を働かせることです。知性を働かせ、感情の世界に陥らないように理性を使うことです。理性を使うことを意志し、理性を使って知性を働かせることになります。そうすると様々な解決への道が見出せることに繋がりますし、その時点では見いだせなくても、今をどのように生きたら良いのかが見えて来るということを学びました。やってみようと思いました。 

2012年12月9日(日)牧師 國枝欣一

感謝する心を持つ。「感謝する」はそんなに難しいこととは思えません。現実にしていると思いがちです。物をいただいた時、他人から何かをしてもらった時、ありがとうの一言と感謝の気持ちがわいてきます。ところがそのようなことは当たり前と考えている時は感謝の気持ちはわいてきませんし、「ありがとう」の言葉も出てきません。
 ということは、感謝な心の持ち主は、何が起こっても特別なことと思っていることになります。特別なことだから有り難い、文字通りそのようなことが起こることが難しいと感じていることになります。今日まで生かされてきたことをありがたいと感じる、3度の食事を食べられることをありがたいと思う、1日を終えお風呂には入れてありがたいと感る、子供を与えられてありがたいなどと感じられることによって感謝が湧いてきて、心が平和になっていきます。
 一方、全てのことが当たり前となると、現実を不満なことととらえて、あれがほしいこれがほしいということが起こってきます。今子供の間で流行のカードゲームなどは、もっと強いカードがほしい、あれとこれを揃えたい、望みのものが手に入っても次を求めます。大人も同じで望みの車を手に入れて、一時は満足しても、新車が出るとまた次の車を欲しくなります。人間の欲望には限りがありません。
 これらはみんな物質の世界のことです。霊的な世界のあることを忘れている結果として起こることです。感謝な心を育てることはそのことを意図しなくても<いのち>を大切にすることに繋がり、<いのち>を考えることは感謝する心を持つことであり、物質の世界と霊の世界が共に有りあることに気づく入り口に立つことに繋がると思います。どんなことが起こっても感謝して受け入れていくときに、私たちには平安が与えられるとつくづく感じます。今週もまたどれほどたくさん感謝の念を持てるかチェックしてみたく思います。   

2012年12月2日(日)牧師 國枝欣一
11月22日は語呂合わせで『いい夫婦の日』ということでラジオは1日中いい夫婦に関する話題で占められていました。80%の夫婦が『自分達は仲の良い夫婦だ』と思っているようです。ところが現在の日本人の結婚の30%は離婚しているというデーターもあります。戦後1960年代までは離婚は減少していましたが、60年代後半になると離婚は増加し、離婚率は今日に至るまで上がり続けています。今では3,4組に1組が離婚しているということになります。
 アメリカでは45歳以上のカップルの45%は離婚しているそうです。ほぼ2組に1組が離婚しているということになります。それほど離婚はごく日常的なことだともいえます。日本はそれと比べるとまだ少ないといえます。また世界の中では離婚の多さでは22番目と言われています。
聖書では結婚の規定においては、マタイ福音書19:6で「二人はもはや別々ではなく一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とあります。ここからカトリックの離婚の禁止規定が出てきます。それはある意味で正しいと思います。なぜならば結婚とはお互いがお互いを全体的に受け入れることだからです。
 しかし現実には慰謝料だ子供の養育費だなどという面倒なことも要らないから離婚したいということも起こるでしょう。霊的な意味においては、「結婚愛の徳性と力の起源・・・は夫婦の精神的類似性と同心一致からでる」(CL112)、「善と真理は、天使や人間のもとでは結びついていますが、・・・善と真理は二つではなく一つです。・・・ここに天界から見た結婚がえがかれています。」(HH372)ということができます。80%のカップルがこの精神的類似性や同心一致から感じて『いい夫婦』と感じているのでしょう。しかしそれらを感じるために多くのカップルが相手に配慮し、相手に合わせていることも忘れてはならないところだと思います。お互いに奉仕しあう関係を作っていく、それは教会形成にとっても大切なことだと思います。   

2012年11月25日(日)牧師 國枝欣一
地上に住んでいる私たちは、言語が違い、文化が違い、風土が違う環境の中で生活をしています。従って異なった環境の中で育った人々が一緒の生活をする時には様々な困難が伴います。修道会で生活をする神父さんたちは当然のことですが同じ信仰を持った人々の集団です。ところがどうしても同じ文化圏で育った同じ母語の人同士で集まる傾向が在るということを聞いたことがあります。それ位異文化理解は難しいという  ことでもあるのでしょう。
 ハワイは様々な民族が溶け合っている地域だと思います。私の学びも9人が8カ国から来ておこなわれました。生活面でも南太平洋からの医学生、アフリカ、アメリカ本土、インドネシアと多彩でした。こうなると生活の様々な場面で!?っといったことが起こります。習慣といったものは習慣ですから無意識な行為です。そこに思い違いや、感情の軋轢が起こることがあります。地上で生活しているとお互い努力しないと分かり合うということができません。
 天界の天使には様々な民族出身の天使がいのだろうなと容易に想像できます。しかし天使同士で文化の軋轢があるという話は聞いたことが在りません。言語の違いが在るなどという話も聞いたことがありません。お互いが支えあい、互いに社会を作っているということは読んで知っていても社会の格差などということにも出会ったことがありません。
 では地上における天国に一番近い共通言語とは何かと考えてみると、それは音楽のように思います。バッハ、モーツアルトはもちろんビートルズの曲まで、民族を超えて人々を魅了します。音楽によって人は安らぎを得たり、癒されたり、元気付けられたりします。演奏していても全体のハーモニーを考えながら演奏します。このハーモニーという言葉から天国の香りを感じます。それぞれの楽器の個性を尊重して、その個性を全体のために使うとき、全体としてもまとまりがきちんとなる。日本人はそれを古来から「和を持って尊しとなす」と言ったのだと納得。  

2012年11月18日(日)牧師 國枝欣一
お互いに深く知り合い大切な存在と分かっているのに、ちょっとしたきっかけで決定的に関係が壊れてしまうと言うことが人生では時に起こるものです。事実を受け入れることは困難が伴いますが、起こったことを受け入れ、それを感謝する心の必要性も感じます。こうしたことには自己弁護、自己憐憫などがすぐついてきますが、そこから離れ、み旨として感謝して受け入れるとしたら・・・と考えてみると、先ず過去の同じような経験が浮かんできました。内容はそれぞれ違いますが共通しているのは、苦い思い出で思い出したくない経験です。
 相手に批判的になったり、攻撃的になることを止めて、その事実の苦さを味わいながら、起こったことを見つめてゆくと、聴けていない自分を見出します。自分の利害や正当性が損なわれようとする事態になると、怒りを抑え論理的になろうとする傾向があることをも、見出しました。自分に関わりの無い話ですと相手に寄り添って聴くということができるようになって来ましたが、予期しない攻撃や批判に出くわしたり、自分に関係している場合は寄り添って聴くということが難しくなります。そして私の感じている怒りのもとは自分自身の解釈だと言うことです。相手の問題ではなく自分の中にあるものなのです。それに対して怒っている自分も発見できました。
 決定的に関係が切れてしまうような事態を感謝して受け入れること、すなわちこの状況は主が与えてくださっていると感じられるようになれると、事態は変化します。自分の固執している邪悪な価値観から離れるようになれることです。これは今まで自覚できませんでしたが、うすうす感じていたことでもあったと言うことも発見できました。感謝する心と言うのは天界的愛を自分の中に育てることです。怒りがあるのにそれを直視しないで論理的理性的態度をとることは知識の誤用です。その態度は地獄的なものだと感じました。すべてのことを主に感謝できるようになりたいと感じたら自分の心が平静になりました。ありがたいことです。

2012年11月11日(日)牧師 國枝欣一
宗教には教義があります。教義の無い宗教は神道くらいでしょうか。長い期間にわたって伝えられてきた宗教には先達のたくさんの知恵が蓄積されており、安全で効率よく目的とする境地に到達できるように導かれます。
 瞑想や断食はさまざまな宗教に取り入れられていますが、これらは厳密には宗教ではありません。しかし「普遍宗教的なもの」といっても良いのかと思います。そこにはキリスト教にも仏教にヒンドゥー教にも通ずるものがあります。インドやネパール、チベットなどで盛んのようです。瞑想や断食には知恵と経験をつんだ的確な指導者が必要だといわれています。 
 宗教の歴史の中には、自分の信仰こそ一番で他の宗教は救われない、場合によっては邪教だなどといって戦争になったことがたくさんあります。自分の教義についても相手の教義についても教義を思い込むことでこうしたことが起こります。
 現代に生きる私たちは必要な情報入手しやすくなっています。他宗教に関することもすぐ手に入りますので私たちも周りの教会や宗教をもっともっと知ることが大切です。知ることで理解が深まりますが、実はそれだけでは足りません。必要なことは直接出会って体験してみることです。
 平和で天国的な心で相手に尊敬心をもって接すれば相手がよく見えてきます。瞑想は自分の心を整えることでよく自分自身、そして周りが良く見えるようになるための修行でしょう。これらが良く見えてくるためにその存在をしっかりと支えている実体――それを神、仏、絶対なるもの、ブラフマン、ハイヤーセルフなど様々な言葉で表される存在――を体験できるのです。 私たちの神学は異なるものにやさしさを持った視点があります。それは私達の心が愛に満たされた天国的なものになり天国を目指して今を生きようとすることから出て来ています。

2012年11月4日(日)牧師 國枝欣一
先週はキッペス神父の代講で聖母病院を実習場所としたスピリチュアルケアの学びの講義を担当しました。毎朝2時間早く起きて教会に行き、車を置いて、豪徳寺から下落合まで通いました。久しぶりのラッシュ時の通勤です。この混雑の中で自分の居場所を確保することは難しいです。自らの力を抜き周りの動きに合わせながらそれに乗って動いていくと自然に自分の空間ができて最低限ですが、それなりに立っていられる場ができます。
 そんな中で時々自分の居場所を確保するために肘でくっ付きあった人を押しのけ、お尻で他の人をその場所から追い出して自分のいる場を守ろうとする人がいます。「ああ、大変な思いをして何時も自分を守っている人なんだろうな。」と感じました。どんな顔をしている人なのか見たくなって少しその人から離れて顔を見てみました。お化粧も無く、肌も荒れていて生気がありません。 疲れているんだろうな、人生に怒りを感じているのかなと思いました。
 ラッシュ時に 電車に乗ることは好きではありません。非人間化も感じます。しかし同時に見ず知らずの人がいてくれて自分が立つことを支えられていることも感じます。すると周りの人に感謝も感じます。そして私も誰かを支えていることに気づきます。
 自分で立とうとすることは悪いことではありませんが、自分だけで立とうとすると大きな抵抗力を自ら招いてしまい、立つことにものすごく大きな力を使わらざるを得なくなります。自らを手放すことは人生で最後の私達の仕事のように思います。主にお任せする事を学ぶようにとラッシュを私に与え、懸命に自分で立とうとすればするほど立ちにくくなることを、自我の強い私に教えるため、キッペス神父の代講のチャンスを主は与えられたのだと思えたら、代講の大変さや、ラッシュのひと息も気にならなくなりました。
 主は私達の様々な場面で働いてくださっていると改めて感じさせられる一週間でした。

2012年10月21日(日)牧師 國枝欣一
先週は金田静雄さんの紹介で「無手の法悦」大石順教著春秋社を読ませてもらいました。順教尼は昭和43年に80歳で亡くなった真言宗の尼さんです。この方の人生を振り返っていくと試練の先に平安があるということをつくづく感じさせられます。
 順教さんはお寿司屋さんの長女として生まれ、11歳で踊りの師匠になるほどの才能の持ち主でした。さらに日本舞踊を極めるために廓の経営者のもとに養女として出され芸事に励みます。ところが養父の狂乱によって一家6人が惨殺され、ただ一人両腕を切り落とされながらも生き残りました。入院中から養父の裁判が始まりましたが、養父の罪が軽くならば何でもしますと養父の罪を赦し、裁判官を感激させます。
 退院後、旅芸人として巡業を続けている時に旅館の庭に飼われていたカナリヤを見て、手の無いカナリヤは全てのことを口で行うのを見て独学で口に筆を含み文字と絵画を学び始めます。ある時お坊さんに得度をして尼になりたいと申し出ますが、結婚をしなさいと勧められます。15年間の結婚生活で一男一女をもうけますが協議離婚をして身体障害者婦女子の教育と収容を行い、昭和8年には得度を受けます。
 他人から見ると順教尼の人生は壮絶な人生に見えますが、彼女は常に我を抑え任せることを実践してきたように思います。それは巡業の引退興行のときにはっきり現れています。三番叟を踊ることになるのですが手の無い順教は文楽の人形遣いに手をお願いします。しかし興行前日まで上手く行きません。寝付けない夜を悶々としていると踊りを指導してくれていた養父の声を聴きます。我を捨てて木偶になれ、人形遣いに全てを委ねよというものでした。
 主に任せるとはこういうことなのだと改めて深く学ばされました。感謝です。

2012年10月14日(日)牧師 國枝欣一
10月7日に行われた堅信礼は東京新教会にとって20数年ぶりになるのではないでしょうか。堅信礼について少し説明をしたいと思います。私たちに新教会には幼児洗礼があります。(と言うことは教会の中には幼児洗礼を認めない教会があると言うことです。)幼児洗礼は両親の信仰によって受洗した者が、自らの信仰を表明して、聖餐式に陪餐する資格を得て、教会員としての完全な権利と義務を持つようになると言うことです。これが伝統的考え方です。
 その聖書的根拠は使徒言行録8:14~17,19:1~7などがあげられています。使徒の時代以降、水の洗い(洗礼)と油を塗ること(塗油)と按手(司祭、牧師、神父が手を頭の上に置いて祝福すること)がみなキリスト者としての生活への加入に関連しており、結果として「罪の赦し」「教会への受け入れ」「永遠の命への招き」「政令を受ける準備ができること」に関連しています。歴史的には4世紀頃までには「洗礼」と「堅信礼」は区別されていたと言われています。
 新教会のサクラメント(秘跡)は他のプロテスタント教会と同様に「洗礼」と「聖餐式」です。(カトリックと正教は異なっています)ということは、堅信礼はサクラメントには入っていないと言うことです。堅信礼を受ける人は必ず幼児洗礼を受けているので、その信仰の神秘な部分はすでに本人が意識するとしないに関わらず天界への霊気(スフェア)の中にいると言うことです。
 日本の新教会ではまだまだ大人が天界への入門としての「洗礼」を受ける人がほとんどで、親から子へ、子から孫へと信仰が受け継がれて行く基盤が弱いのが現実です。洗礼と堅信礼が次々行われるような生き生きとした教会になりたいものです。堅信礼の準備をする中で祝福されていることを強く感じ、希望を与えられ、東京新教会の未来をよりはっきり描ける機会を与えられたと感じています。

2012年10月7日(日)牧師 國枝欣一
主のみ言葉を聞いても聞かない、行いの業を見ても認めないユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々の話しが福音書の中に繰り返し出てきます。そして律法学者や祭司やファリサイ派は私でなくてよかったと思うことがしばしばあるのではないでしょうか。キリスト教徒でよかった。あんなに私は頑なではないと、密かに思ってほっとしている自分を見出してはいないでしょうか。 主の在世当時、このような人々は、社会で尊敬もされ重んじられ、実際に力を持っている人々でした。
しかしそれこそが私たちの陥りがちな危険な落とし穴だと思います。私たちは自分の耳に心地よいことしか聞きませんし、興味のあるものしか見ない傾向があるからです。自分の中にファリサイ派、律法学者、祭司の傾向を見出すことはある意味でつらい作業です。意識して注意深く見るか、心の奥深いところからの声を聴く習慣を持たないとなかなかできません。これは年齢、経験、男女、一切関係なく誰にも難しいことです。
何かをするという行為の背景には、動機や意図や欲求、願望と言ったものがあります。前述の辛い作業というのはこれらを意識化する難しさでもあり、また気がついた時には、自分では思ってもいなかったどす黒い悪魔的な思いがあったりするからです。嫌っていた親と同じことを自分の子供にしているなどということが良く起こります。
この様なことに気づくとショックでもありますが、それは主からの流入が天使を通して起こることによって与えられる恵みでもあります。気づけば同じような事態に直面した時に選択が働きます。自由選択の意志が働くと言うことは、主からよりたくさんの流入を与えられることでもあります。ですからどんな立場にあっても、謙虚でいることを通して、さまざまな人々の声に耳を傾け、それをもとにもう一度自分を振り返ること、それが真の信仰生活ではないでしょうか。

2012年9月30日(日)牧師 國枝欣一
私達が通常「モーセの十戒」と言っている戒めは、法律のように第1条、2条・・・と言うように書かれてはいません。「十戒」と言っていますが、もとのヘブル語では十の言葉と言うことであり、それがギリシャ語に訳されて「デカ」が十を意味し、「ロゴス」が言葉と言う意味から「デカロウグ」と言われます。それが英語になってTen Commadment(命令、戒め) と言われるようになりました。
 ところが この「十の言葉」どのように区切って十とするかは教派によって異なります。東方正教会(ロシヤ正教、ギリシャ正教など)聖公会と多くのプロテスタント教会はただ一つの神を信ぜよと偶像を作ってはならないを二つに分けます。ところがカトリックとルーテル派はこれを一つと考え、最後の他人の家を貪ってはならないと、妻、男奴隷、女奴隷、牛、ロバを貪ってはならないを二つに考え合計十にしています。
 スウェーデンボルグはルーテル派出身であり、自分の教派を改革しようとしていたので、十戒の分け方もルーテル派に倣って分けています。ルーテル派がカトリックと明確に違うところは、教会の聖伝を認めず聖書のみという聖書中心主義、信仰によってのみ救われると言う「信仰義認」と「万民祭司」(全信徒は祭司)に立っているということです。万民祭司と言うことは、聖職者だけが聖職についているということではなく全ての職業を天職ととらえ肯定したことです。
 またカトリックの定めている秘跡は7つですが、洗礼と聖餐の二つのみを聖礼典としました。これは全プロテスタント教会受け入れています。以上のような違いがありますがそれをよく理解したうえで著作を読む必要があります。そうでないと著作をいくら読んでもスウェーデンボルグが指し示しているものを見失う危険があります。十戒もこうしたことを前提に著作から学ぶ必要があります。

2012年9月23日(日)牧師 國枝欣一
自由選択の意志と合理性は私たち人間に与えられている基本的な性質です。ところが本当にこの与えられている意志を自分の生活の中で使っているかと改めて自分の中身を見てみるとそうなっていない自分を発見します。ずっと自由に選択してきたと思っている人でも、よくよく自分の内面をチェックすると過去の経験に引っ張られて反応しているだけと言うこともあります。   これが本人の人生を豊かに、幸せにするものであれば幸いなことなのですが、同じ失敗を繰り返しているということも多々あります。
 ところがやっている本人は同じ失敗とは感じていないことが多いようです。相手が悪い、事柄が間違っていると思うことが多いからです。こうしていると自分の問題点が見えてきません。主は姦淫の女がとらえられた場面で「罪を犯したことのない者が先ず、この女に石を投げなさい」と言われました。外に目を向けるのではなく内に向けなさいといわれているのです。
私たちは教義を知っていてもそれが知識に終わっていることが多いのではないでしょうか。知ってはいるけれど実行できていないと言うことです。これが冒涜だと言っているのはスウェーデンボルグです。知ってはいるけど実行で来ていないということに気づくことが、私達が冒涜から開放される大切なポイントです。
 気づくことによって始めて自由になります。気づかないで同じことを繰り返すのは奴隷状態だと言うことです。与えられている自由選択の意志を十分使えるようにお互いに配慮しあい共に生きる時、天界の表象である教会はその機能を充分に発揮できるようになるのではないでしょうか。主が共にいてくださるから難しい課題であってもそれを実現できるという希望を与えられているように感じます。

2012年9月16日(日)牧師 國枝欣一
30数年前のことで申し訳ありません。津軽海峡をソ連の潜水艦が航行したことがあります。この報道に接した時の私自身の中に起こった反応に自分自身がすごく驚いたと言う経験があります。その反応と言うのは私の中のナショナリズムが沸き起こってきたのです。自分の家の庭に断りもなく入ってくる無礼な人間に対する感情と似てもいました。ソ連の潜水艦は報道によれば海峡の公海部分を通って太平洋側にぬけたとありました。
 最近は、北方四島のロシアの実効支配が進んでいること、竹島の韓国大統領の訪問、尖閣列島の国有化の問題などわが国の国境の問題が騒がしくなっています。その度に政府の対応のまずさが批判されます。最近はこれらの地域の資源問題が絡み問題をよりいっそう複雑にしています。この様な問題がナショナリズムと結びつくと問題が余計危機的になります。
 韓国では国内の政治的な背景があって竹島問題に火がつけられているようです。中国でも大使の車が襲われ日の丸が奪われました。中国の尖閣列島の問題は容易に国内問題への不満に変質する危険性もあって抗議運動が政府によって押さえ込まれているようです。韓国の問題など見ていると国民の目を国外に向けて内政問題から目をそらさせるために仕掛けられた工作というような報道もあります。
 ロシアも韓国も、そして中国も日本にとって大切なパートナーです。この様な複雑かつ困難な問題にこそ愛と知恵が必要です。私たちの中には私がかってそうであったように悪しきナショナリズムが誰の中にもあり、うっかりするとすぐそこに火をつけられてしまう可能性があります。「我らを試みに合わせず悪より救い出したまえ」と祈ることの大切さを改めて深く考えさせられるこの頃です。

2012年9月9日(日)牧師 國枝欣一
愛や善はそれ自身では形にならず、それらが形になるためには真理や理性や合理性と結びつくことが必要だと言うのはスウェーデンボルグが教えているところです。一方、オーム真理教の事件でも、連合赤軍事件でも、そこに関わった人々が、心から魂の救済を願う、国を憂う善意の青年たちだったと言われることがしばしばありました。左翼であろうと右翼であろうとそういわれることがしばしばです。太平洋戦争の時も多くの若者は国を思い、家族を思って死んでゆきました。
 オーム真理教、連合赤軍、日本国軍隊。まったく異なった取り合わせのように思いますが、共通しているのが善意の人々で、みんな特殊な人々でなくごく普通の人々の集団だと言うことです。麻原彰晃、森恒明、永田洋子、東条英機といったそれぞれの代表者の問題だけではなく、部下や信奉者との相互関係の中で起こった悲劇的な事件ということも可能だと思います。
 特攻兵器を作れと命令された技術将校はこんな兵器では戦えないと思いながら命令に従いました。アジトでの総括に参加をするのがいやだなと思いつつ加害者の立場になったメンバーがいました。教団の中で理解できないことが起こると自分の修行が足りないからと殺人に関わった出家修行者がいました。
 元海軍の将校たちの集まりの中ではそれらを「やましき沈黙」と言う言葉で表現しましたが、それは現代の様々な集団の中でも起こっていることです。動機や意志は純粋であり、愛に満ちたものであっても真理、理性、合理性の面が十分に働かないと意志や動機がどんなに善なるものであっても容易に虚偽や誤謬に転換してしまいます。私たちの信仰生活にも容易に起こることです。自らとしては注意深くなり、主に「悪しきことから救いたまえ」と祈りたいものです。

2012年9月2日(日)牧師 國枝欣一
私たちの多くは、他人から相談を持ちかけられるとそれに答えなければならないと感じます。ですからその相談に正しい答えとか良いアイディアを出せないと相手の希望に沿えてないと感じてしまうことがあります。本当にそうでしょうか。相談を持ちかける人に代わってその人の人生を生きることは私達にはできません。したがって正しい答えとか良いアイディアがその人の生活にぴったりかどうかも分かりません。
 私たちは自由選択の意志と理性ないしは合理性が基本的に与えられていると学んでいます。だとすると相談を持ちかける人自身がその人の自由選択の意志と合理性を使って事態に切り込んでゆけることになります。ですから他人から相談を持ちかけられたときに、その人が選択できるように援助をし、合理的に事態を把握できるように援助すればよいと言うことになります。どんなに困っている人がいても私たちはその人の生活の全部を知っているわけではありません。その人に与えられている意志と理性を、あたかもその人が自分自身の努力で働かせるようにすると主からの流入が働き、救いはやってきます。
 私たちはみ言葉を聴くとか、み言葉に従うとよく言いますが、他人の話を聴けないでみ言葉を聴けるということはありません。私の相手となる人との関係は意識をしていようとしていまいとに関わらず、その関係は常に主と私の関係を表象しています。私たちの文化の中には「和をもって尊しとなす」ということがかって強く言われたことがありました。戦後その言葉は否定的にみられてきましたが、現在のように個性が評価される時代に、戦前、戦中とは別にもう一度この言葉をかみ締めて見たいと思います。「和」が天界的なものであると考えるとやっぱりそれは尊いものですし、相談に乗れると言うことは主から与えられている自分の役立ちをそれぞれの場で果たしていくと言うことにつながります。それが信仰生活です。

2012年8月26日(日)牧師 國枝欣一
「盗んではならない。」と「偽証してはならない」という二つの戒めは互いに深く関係しています。前者は文字通り財物の窃取を意味しますが同時に霊的な意味としては、「功績はあるべきところにお返ししましょう。」という勧めでもあるということを前回お話しました。後者は「真理を語りましょう」と言う霊的な勧めでもあります。
 私たちは 嘘をつくと言う悪い癖からなかなか脱することができません。積極的に嘘をつく積り等ないのに、困っているのに困っていない振りをしたり、調子が悪いのにまあまあと言ったりもします。これらの原因は何かとよく自分の内部を見つめると、それは虚栄心であったり、自己防衛であったり、不安感であったりします。こうしたことによって私たちは神から与えられている真理を語ると言う恵みから遠ざかってしまうと言うことが起きているのです。
 「真理を語る」と言うことは誰かを断罪したり、攻撃したり、自分の正当性を主張して相手を打ちのめすことではありません。誇張したり、正当化したり、過小評価をしたり、歪曲せずに事実を語ると言うことです。また事態をちょっと下がって俯瞰する、よく観察するという態度が心と感情を静かにさせる効果もあります。結果として他人を攻撃したり、傷つけないでことを伝えることができます。
 この二つの戒めは、私たちに功績を自分のものとしないと言う、謙虚でいることの大切さと、プライドの持つ罠や絶望感や無価値と感ずる罠から私たちを自由にしてくれるものです。「天界と地獄」302にはプライドや絶望感などをどのように投げ捨てることができるかの秘密が書かれています。ぜひ読んでみてください。私たちの霊的成長を促すことができます。

2012年8月19日(日)牧師 國枝欣一
「盗んではならない。」は十戒のひとつです。盗みは何も「物」を盗むだけではなく、知的財産権といわれるデザイン、コンピュータソフトウェア、論文の盗用なども含みます。またそれだけでなく霊的な意味としては、「功績はあるべきところにお返ししましょう。」という勧めでもあります。と言うことは自分の中にある優しさや、正しい行い、真の考えなどは、すべて自分のものではないという考えをしっかり持ち、神にその功績を帰すべきであると言うことです。「全て善きものは主から、全て悪しきものは自分から」と言うスウェーデンボルグの教えを思い出します。
 しかし多くの私たちは、他人と比べて自分の良くできることを誇り、優越感を感じます。神から与えられたものであるにもかかわらず、自分の功績と思ってしまうからです。深く自己点検し、自分の中の偽りの神を見出す努力をしないと不健全な誇りを持ってしまいがちです。
 ヨハネ福音書(8:1-11)に姦淫の場でとらえられた女の話しが出てきます。姦淫の英語は「adultery」といいますが、この語源はラテン語の異質のものや不適切なものを加えて「不純とする」「汚す」を表す語から来ているそうです。確かにレビ記20:10にあるように必ず石打の刑によって殺さなければならないとあります。石には霊的な意味として真理を表すという意味がありますが、同時に裏返すと虚偽と言う意味もあります。
 聖書を自分に都合よく解釈したり、正しさを主張する時にこうしたことが起こります。女の周りにいた男たちはまさにこうした人たちだったのです。主の「あなた方の中で罪のないものがまず石を投げつけるが良い」と言う言葉に年寄りから一人一人出て行きました。み言葉を「盗んでいた」事に気づいたのです。そしてただ一人残された女は自己弁護することなく自己防衛的にもならずに「罪を犯さないように」と言う主の言葉を受け入れました。注意したいものです。

2012年7月22日(日)牧師 國枝欣一
依存症にはアルコール依存、ギャンブル依存、 買い物依存、マリファナなどの薬物依存などいろいろありますが、依存症を克服することは本人も家族も多大なエネルギーを必要とします。以前アルコール依存を克服された方が教会に見えました。彼は自分の体験を役立てようと断酒会のリーダーをつとめています。体を壊し、家族にも見捨てられ、どうにもならなくなってはじめてアルコールを断つ決断をし、断酒会のメンバーに支えられ、アルコール依存から脱出できたそうです。このどうにもならない体験を「底つき体験」といっています。この体験がないと依存症から脱出できないそうです。
 しかし患者の「底つき体験」を阻害してしまう大きな力が家族間の中に起こることが良くあります。そのひとつが「共依存」と名づけられている依存症を返って強化する家族間の力の働きです。「共依存」とは簡単にいうと夫の依存症を妻は意識の上では良くないと思い、何とか止めさせようとはしているのですが、その止めさせようとしている行為の中に無意識ではあるけれど彼が依存症であることによって自分の存在価値を得ている状態といえるかと思います。しかし配偶者や家族がそれと気づくのは容易ではありません。
 霊的には家族への愛や善なる思いが悪に変化してしまうことであり、知恵や真理が偽りに変わってしまうことです。結果として本人も家族も地獄の苦しみを経験してしまいます。「底つき体験」とは霊的には「悔い改め」であり、そこから始まるのが「自己改革」です。依存症というのは精神病の一分野で私には関係ないと思われるかもしれません。しかし誰でも依存・共依存傾向は持っています。主にある信仰を考える私たちにとっては、病気とはいえないこの傾向を克服する作業が「信仰」なのだといえるかもしれません。この世を旅立つまで続く作業です。

2012年7月15日(日)牧師 國枝欣一
神学校時代のある授業で教授が学生に「一番長い冬はいつか」と質問したことがありました。みんな考え込みました。日本流に言い換えれば「一番長い梅雨はいつか」ということになるでしょう。それはわたしたちが 「試練」について学んでいたときのことです。ボストンは冬にはマイナス20℃を超えることが何日もあります。答えは、「冬を経験している最中」でした。日本の梅雨もなかなか過ごしにくい季節です。これから関東では梅雨本番です。蒸し暑い日々にはうんざりします。毎年梅雨の終わりの日は若干の違いはあっても必ず終わり、夏がやってきます。
 「試練」の最中は、これが永遠に続くように感じ、辛いのですが、どれほど厳しい寒さの冬であっても、過ごし難い梅雨であっても、次の季節が必ず来るように、「試練」もまた終わるときがあるのだというのです。スウェーデンボルグは試練の後に平安が訪れるといっています。東日本大震災のあと「想定外」という言葉が良く使われました。人生における「試練」もまた個人としては「想定外」でしょう。回復困難な病気、突然の事故、それに伴う大きな怪我、会社の倒産、リストラ、それに伴う経済的困難、愛する者との離別などたくさんあります。それらの最中で人は皆苦しみます。
 しかしその最中にあっても、「試練の意味を見出し、試練もやがて終わる時がある」と信じることができれば耐えやすくなります。あるいはその試練を耐える力を増すことができます。また「神はその本人に耐えられないような試練は決して下さない」という考えがあれば、そこに向き合う力が出てきます。信じること、考えを持つことはその人の生活の仕方に影響を与えます。その生活の仕方がその人の信仰をあらわします。新教会人の私たちは、そこに主がいまここに居られることを感じ、主は全能の神である事を信じ、自らを委ねていくことができる幸いを与えられています。試練を避けるのではなく、引き受ける力を与えられていることを感謝したいです。

2012年7月8日(日)牧師 國枝欣一
ボストンに留学した年の話ですから随分前のことで申し訳ありません。神学生は皆、日曜日教会で実習をしました。私は言葉も不自由で車もないということで学校から歩いて行ける近くの教会で実習をさせていただきました。会員数300人ほどのアメリカでは中規模の教会でした。中年の家族が多い、したがって小さな子供たちもたくさんいて教会学校も盛んな教会でした。この教会の40代50代の会員の多くが教会は家族だと言っていたのが印象的でした。アメリカ社会では皆胸を張っていなければ生きていけない社会です。外では弱みを見せられないけれども教会では大丈夫なのだという意味なのです。私の教会の原型になっているものには、学んだ教会論と共に、今まで育てられた教会があります。また前職であったYMCAもそのひとつになっています。上述のボストンの実習での経験もそのひとつです。
 こうした経験は 今、新教会を建てると言うときにも働いています。教会は家族だといった40代のアメリカ人サラリーマンの声は今も心に響いています。喜びも悲しみも辛さも共にする、現実的には難しいことがいっぱいある中で困難であるけれど、それらを共にしようと努力することが家族を造ることであり、教会を造ることなのだと思います。
 人間の視点から見ると、長所も短所も含めてその人になる、そのままでいられる、いることが許されている場、それが教会なのだと思います。"私"という存在が本物になるということが実に難しくなっているというのが現代ではないでしょうか。教会は、主に任せ、自分を手放すことのできる場、安全、安心の場になることが求められているのではないでしょうか。この世の教会は天界の表象であるということをもう一度深く考え直してみたいと思います。そしてそれを単に観念の問題とするのではなく、現実のこととして取り組んでゆきたいと思います。そのために安息日を守り、もう一度主との関係を結びなおす機会を皆さんと持ちたく思います。

2012年7月1日(日)牧師 國枝欣一
「悔い改め」と「自己改革」は理性をもとにして考える過程であり、「再生」は意志をもとにして愛する過程ですと「真のキリスト教」571節にあります。確かに何か失敗をした時に何で失敗したかあれこれ考えて「だめだった。」と思い至ります。思うこと考えることは理性の働きです。反省することは自分の成したことを振り返ることですが、この振り返りがあって「悔い改め」ることが起きます。ですから自分を振り返ることのない人は救われるということもありません。この様な人は少ないと思うかもしれませんが、意外とそうではなく思い込んでいるために気づけないということが良くあります。
 「再生」 とは「新しく造られる」というような意味があります。その時人はそのようにすることが好きになり、そのようにすることが大切と思えるようになって、その人の視点は意志が中心となり、後からその理由付けのために理性が働きます。「新しく造りかえられるためには、ただ主のみ力によって、仁愛と信仰という二つの手段が人の協力よって働かなくては、実現しない」(TCR576)とあります。「人の協力によって働かなくては」ということは、私たちが自らの意志で選択するということです。自由選択の意志ということは、愛に関係する領域です。
 「悔い改め」「自己改革」「再生」という霊的成長の順番は、赤ちゃんが寝返りをうち、ハイハイし、つかまり立ちをして、初めて歩き出すように、その順番を飛ばして成長することはありません。人間は多面的な存在ですから、ある面では再生が起こっていても、他の面では悔い改めから始まるということは良くあることです。そうした点で私たち新教会人は、この世に生かされている限り、「悔い改め」「自己改革」「再生」をあたかも自分の力でするように努力する必要があります。その時主のみ力が私たちに豊かに働き、霊的成長をすることができます。

2012年6月17日(日)牧師 國枝欣一
信仰の維持のために、祈りは欠かすことはできません。主の祈りは、主がその基本を私たちに示してくださっているものです。祈りは、祈れない状況にあるときほど大切です。怒りに翻弄されているとき、イライラしているとき、人をそして事柄を恨んでいるとき、得意の絶頂にあるとき、私たちは、本当の神ではなく、偽りの神に膝間づいているときです。偽りの神から離れる第一歩はその偽りの神に名前をつけることです。自分中心の神とか、偉ぶりたい神というように、偽りの神に名前をつけることによってはっきりと認識でき、そこから離れることができます。またこうした神に支配されているときは、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めを犯していることにもなります。偽りの神を振り回しているのです。こうした事態に陥っているとき、 困難ですが、祈りが必要です。
 個人で静かに祈ることが大切ですが、怒っている最中にこの怒りを取り除いてくださいという祈りはあまり有効ではないように思います。それより、神の似姿として今私に欠けている神の性格を求めたほうが良いように思います。するといま自分が何をなすべきか与えられます。猛スピードで動いているときに、ちょっと気を静め、振り返ることでまったく異なった事態が見えてきます。
 個人で静かに祈ることと同時に、他の人々とともに祈ることも大切です。共に祈ることを通して教えられることもたくさんあります。自分が一人ではないこと、つながっていること、他者の中に働く神を実感できることなどです。悔い改め、自己改革、再生は、こうした一人の祈りと、仲間との祈りの中で起こってきます。心が開かれ、私たちの霊が天界とつながり、天界からの流入をたくさん受けられるようになるからです。祈りつつ、日々の具体的なことに取り組んでいきましょう。主は私たちの中に、私たちと共に常に歩んでくださいます。

2012年6月10日(日)牧師 國枝欣一
「安息日を守る」は十戒の第3番目です。私たちはこれを文字通り聖日礼拝を守ることとして受け取りますが、この戒めの意味はもっと深いものです。聖なる日は神が創造のすべてをなし終えた時に休まれたということから特別に聖別して尊い日として制定されました。
 ここには人間が神との関係を結びなおす日という意味があります。神と再び結びつき、神を通して他者と結びつくことが宗教の本質です。そして私たちの神は私たちが最もエネルギーを使い時間をかける対象です。主は奨められています。「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛せよ」(マタイ22:37)と。ところが私たちが実際に時間とエネルギーを使うことは怒りであったり、恨みであったり、成功を願うことであったり、他人からよく見られることであったり、金儲けであったりします。本人も気がつかないのですが、これらはみんな偽りの神です。偽りの神に額づき、膝まづいているのです。
 「安息日を守る」ということは、そこから離れて、神に憩い、神の導きに信頼し、神の意思を行おうとすることです。ですから聖日礼拝を守ることも大切ですが、そればかりではなく、一人で神の無限の性格(例えば、愛、平和、親切、励まし、謙虚、忍耐、寛容、許し、尊敬、喜びといったもの)を求めて祈ることです。それは過去に引きずられたり、未来に不安を抱くことではなく、今ここに集中することで与えられます。
 ユダヤ教では安息日にしてはならないことは1521もあるそうです。これら全部を守ることはできません。しかし主は安息日に良いことをすることを奨めておられます(マタイ12:12)。神が私たちの中で働き、私たちを通して神の御心が行われることを願いましょう。具体的には起こっていることと反対の性質を求めて祈り、主を待つことです。その結果私たちが予想もしなかったようなことが起こります。その時私たちは「安息日」の状態になっているのです。

2012年6月3日(日)牧師 國枝欣一
5月は私にとって、とても厳しい月となりました。教会に関することは私の仕事の中心ですからこれをはずすわけに行きません。その上に今月は臨床パストラル研修センターの一週間集中講義が入っていました。9時から5時まで5日間連続の講義です。これだけでもかなり大変なのですが、5週間連続で毎週月火と夜6時半から10時まで下北沢で俳優の養成講座に出ていました。10年以上前から参加してみたいと思い続けていたのですが日程の調整ができず、実現していませんでした。心理療法や信仰生活とある領域で密接につながるところがあるからです。
 今回縁あって日程的にも何とかなると思いましたので、 ロシア人の演出家の指導を受けるべく参加しました。後、明日明後日を残すだけですが、非常に密度の濃いワークショップですので終わるとぐったりします。周りはみんな俳優、俳優のひよこ、卵ばかりです。ロシア人作家チエホフの作品を材料に学んでいるのですが、俳優たちは台本をどのように読んでいるのかその努力の一端を学ばされました。ワークショップですから私のような門外漢も一緒に演じます。 
 登場人物を良く観察し、想像し、最後はその役と一体化するのですが、そのトレーニングをしていると自分の中の深い部分が揺り動かされ、スピリチュアルな痛みに気づかされました。それに立ち向かうことは至難の業でした。精神的なエネルギーを消耗し、現実の記憶も飛んでしまい、ものすごく疲れ、体中が痛みました。
 今回参加してみて、単に時間的なやりくりができるというレベルで参加したのではだめだ、ひとつのことに集中しないと学べないと言うのが私の実感でした。しかしかけがえのない体験をさせていただいているという実感はあります。また信仰生活を俳優と言う人たちは演劇と言う異なった範疇で追求していると言うことも良く分かりました。5月は私にとって実りの多い月でした。

2012年5月27日(日)牧師 國枝欣一
ヘルマンハープの楽団「みどりの会」は全員青山学院大学の出身で、学生時代に学生YMCA(学Y)に関わってきた人々です。ある者は神学部の先生を中心に読書会に参加していたり、深川のありの街で奉仕活動をしたり、大船渡にある伝道所建設に労力奉仕をしたり、当時エネルギーが石炭から石油へと変わる時期だったので、炭鉱が次々と閉鎖される中で、筑豊の子供を守る会が結成され、そこで活動する者たちでした。そうした経験を持つかっての若者も今は、信仰歴40年50年になる人々です。それぞれ所属する教会で重要な働きをしつつ音楽を通じて社会奉仕をしています。仕事を勤め上げ、親の介護をし、見送り、孫のいる世代の人々ですが、ヘルマンハープとの出会いはそんなに古いものではありません。
 青山学院の学Yは長い歴史があり、その部活動を通じて出会ったカップルが結婚をするというケースが何組もありました。そして私たちの学年の結束には硬いものがありました。その中の一人で先輩と結婚し現在は奈良に住み夫を介護している仲間がいてそのカップルも参加できるようにと奈良で会合が持たれたことがありました。集まった一人の中にヘルマンハープをやっている仲間がいて彼女の演奏を聞いて音色の美しさに魅かれてグループが結成されたようです。学生時代の私たちのグループの名前「みどりの会」をつけて。
  信仰の真理だけでは冷たい意固地なものになりがちです。愛だけあってもそれは形になりません。学生時代を懐かしむ老人世代の同窓会でもありません。主にある交わりを通して他者に仕えていこうとするグループです。教義として新教会の教えを守る人々ではありませんが、それを実践している人々です。12日の土曜日も10時から6時までぶっ通しで練習を重ねる人々です。こうした人々を招ける機会を与えてくださった主に感謝したいと思います。

2012年5月13日(日)牧師 國枝欣一
自分を全体的に把握することの難しさを実感させられる場面が最近何回かありました。中学時代の友人たちが語る私は、私自身の思っている私とずいぶん違っていました。大学時代の友人はクラブ活動での私の存在を私とは違った捕らえ方をしておりすごく驚かされました。これらは私に関する私の知らない面であり、私に関して他の人が知っている私です。
 神はI am what I am. 私は在って在る者と聖書に表現されているように、その存在に特に付加されるものはなく、またその存在から何も差し引かねばならないものはない存在、完全な存在です。神の像、似姿としての私たちは上記から推測してそのまんまで良いのだということができます。そして「そのまんま」とは本物の私ということになります。
 浄土真宗のお坊さんで仏教学者の方の中に(お名前を失念してしまいましたが)「南無阿弥陀仏そのまんま、南無阿弥陀仏そのまんま、南無阿弥陀仏そのまんま・・・」と唱えればよいという方がいらっしゃいますが、これは阿弥陀仏の本願力(慈悲)にただすがるということです。それが救いのただひとつの大切なことだといいます。
 私たちもあるがままの自分を受け入れ、神の性格である、愛、誠実、安心、平和、慈しみ、温和など、自分に足りない部分をただ祈り、主に願い求めるとき、その不足している部分が与えられるのではないでしょうか。それは似姿としての完成を再生を繰り返し求めることです。
 言うことは簡単です。しかし本人に気づきにくい部分がたくさんあって苦労しますが「南無阿弥陀仏そのまんま」は平和と謙虚さと忍耐を与えてくれるような安らぎを感じます。

2012年4月22日(日)牧師 國枝欣一
先週のイースター礼拝では洗礼式が行われ、新しい二人の仲間が私たちの新教会に加わってくださいました。主の大きな働きを感じ、感謝の念が湧いてきます。洗礼を受けることによって私たちがなしてきた一切の罪が消えるわけではありません。この洗礼を契機に私たちは霊的に生まれ変わっていこうとしているのです。父、子、聖霊の聖名によって洗礼は授けられたのですが、今週は聖霊について考えてみます。
 私たちは唯一の主なる神イエス・キリストを信じます。聖霊とはそのイエス・キリストの働きですが、それは人間に意志があり、それをしようという考えがあって、それを実行するようなものです。また、人間には霊魂があって肉体があって行為と言うことが起こります。この実行や行為と言うところに当たるところが聖霊です。意志すること考えること実行することと分けることができますが、実はその三つをやっているのはみな一人の人間です。
 父、子、聖霊というとそれぞれ別なものと感じます。すると父に願うこと、子に願うこと、聖霊に願うことと言うことが考えられますが、そうなると3つの神を信じることになってしまいます。そうではなく人間の例をあげたように考えると三一性ということがはっきり分かると思います。
 聖霊の働き、すなわち主の働きを感じ取るということは何か特別なことのように感ずるかもしれませんが、実はそんなに難しいことではありません。日常の中で常に起こっていることと言ってよいと思います。それを感じ取れない人間の側の鈍感さが問題です。主の働きを見出す目を養う必要があります。それは主へ自分のまなざし、すなわち注意を向けると言うことです。すると私の心は天界と天使とに連絡を取り、聖霊の働きを見出せるようになります。

2012年4月15日(日)牧師 國枝欣一
「真の洗礼(バプテスマ)式は聖餐式と共にプロテスタント教会にとっての秘蹟(サクラメント)です。新教会に属する私たちもプロテスタント教会の流れに沿って以上の二つを儀典として大切にします。洗礼の役立ちの第一はキリスト教会への入門であると同時に霊界のキリスト教徒への仲間入りです。(TCR677)第二は、信徒としてイエス・キリストを主として認め、従うことです。(同681)第三は人が霊的に生まれ変わることです。(同681)
ということは第一にはキリスト教徒という名をいただくことであり、第二には主をあがない主、救い主、再生させる方、救い主として知り、認めることです。そして第三には主によって生まれ変わることで、それが実現すると救われる(同685)と言うことが起こります。ですから再生は内部人間の洗い清めであり、霊的な成長を示します。
人は人間として生まれてくるのではなく、人間になるために生まれてきます。人は人間に育てられることによってしか人間となることはできません。人が生来持っている〈かたち〉とは神のみ力によって〈いのち〉を受ける器官であるということです。ということは神が〈あらゆる神の善〉を人に注ぎいれて、神との一体化を通して永遠に幸福になるようにと導かれています。
洗礼は内部人間すなわち霊の清めですが、それですべての罪やけがれが無くなるわけではなく、あたかも自分で努力するように自分の罪に気づき、悪から離れる努力をするときに、主からの流入が働き、私たちは再生への道に導かれます。
再生への努力は、私たちがこの世に存在し続ける限り続きます。洗礼は教会への入門でここがスタートラインです。それぞれの人間はその人の達し得たところから出発します。交わりを通して霊的に生まれ変わり成長していきます。(TCR=「真のキリスト教」を示します)  

2012年4月8日(日)牧師 國枝欣一
「真の聖餐式というのはプロテスタント教会にとって洗礼と聖餐式という二大儀典のひとつです。新教会に属する私たちは、すべて自然的なものは霊的なものに相応していると考えますので、聖餐式で使われるパンにもぶどう酒にも霊的なものが相応していると考えます。主の肉とパンは、主の愛からでる神の善のこと、主の血とぶどう酒は、主の英知から出る神の真理のことです。そして飲食するということは自分のものとして同化するということです。
 この儀式は主によって制定されました。(ヨハネ6:27~56を読んでください)ですから、肉といっても人肉を示したり、血といっても血液を示している訳ではありません。しかし肉も血も自然的な意味では主の十字架上の苦難を示しています。その点では主の十字架上の苦難は、創世記の過越しの出来事の最後の過越しです。ですから主は「わたしの記念として行いなさい」と言って制定されたのです。(ルカ22:19)聖書では「血」と言うと主ご自身や「神の真理」を表し、「肉」と言うと愛の持つ「神の善」を表しています。しかもこの二つは主にあって一つとなっています。
 ここで問題となるのが私たち人間がどのように養われているかと言う問題です。肉体のために私たちは食事をしますがこれは自然的な養いです。同時に私たちは霊的存在です。霊的存在魂の養いのためには霊的養いが必要です。肉体は死にますが、霊魂は生き続けます。と言うことは霊的養いは永遠の救いがその目的となります。
 従って聖餐式には三つのものが含まれています。主ご自身、主による神の善と神の真理です。したがってそこには天界と教会のすべてのものがそこに含まれていると言うことになります。人間を霊的に見ると霊魂すなわち心、意志と理性という三つのものが存在します。この三つが先の三つを受ける器になっています。すなわち霊魂、心は主を受ける器であり、意志は神の愛と善を受ける器です。そして理性は神の真理を受ける器です。ということで聖餐式はもっとも神聖な欠くことのできない儀式と言うことになります。     

2012年4月1日(日)牧師 國枝欣一
「真のキリスト教」スウェーデンボルグの最晩年に書かれたものです。日本語で1700ページにもなる大著ですが、この中で特徴的なのは、私たちが新たに創り返られる経験をするのは、「新しく造りかえられるには、ただ主のみ力よって、仁愛と信仰という二つの手段が、人の協力によって働かなくては、実現しないということです。」(TCR576)神からの働きかけと人の協力によらなくては、実現しないというところです。
 仏教では自力本願と他力本願ということがありますが、スウェーデンボルグの教えからはその両方の中間といえると思います。私たちが霊的に成長することを主は常に望み、語りかけ、導こうとされていますが、その為に私たちがそれに応答するということが不可欠なのです。その応答の時に私たちは先ずそのことが道理にかなっている、即ち真理だと理性で認めてそのように自らがするということが必要です。ということは自分がやっているという感覚が働き,主が導いてくださっているとは感じられないのです。ところがあたかも自分がやっているようにやることで主との結びつきが強化されていくというのが霊的実際です。
 このようにすることで「自己改革」はなされるとスウェーデンボルグは私たちに伝えています。ですから、私たちは先ず理性を使って「これではだめだ。」「こうしなければいけない」と思い、まったく自分の努力でするようにしたときに、受動側の人間の中で、能動側の主が働いてくださるということが霊的に起こっているということになります。これは単なる理論的な説明ではなく、これができるようになったとき「ああその通りだ」と実感できることです。そのとき「ただ主のみ力によって」ということが分かり、感謝と謙虚さが与えられるようになります。   

2012年3月25日(日)牧師 國枝欣一
教会の庭にも遅まきながらも春はやってきています。今年度はシルバー人材センター庭掃除と木々の剪定をやってもらいました。庭には教会が建てられた時に青年たちによって聖書に出てくる植物が植えられたそうですが、レバノン杉の近縁種があります。大きくなって2階の屋根に届きます。それ以外はアザレア、つつじ、山茶花、ツバキなどですが、ツバキは江戸時代からさまざまな交配種が作られ、大輪のもの、中輪のもの、八重のもの、一重のもの、花弁に斑の入ったもの、しぼりのものというように実にたくさんの種類があります。ちなみに山茶花とツバキは似ていますが、花の散り方が違います。山茶花は花弁が散り、ツバキは花ごと散ります。そのツバキの中に「オトメツバキ」という名のツバキがあります。
 その花の可憐な咲き方からずっと「乙女ツバキ」だと思い込んでいました。そのように思っている人は私ばかりではないようです。そして「乙女椿」で必ずしも間違いではないようです。ところが元々は「お止めツバキ」が本名だったそうです。江戸時代九州島津藩で作出され、門外不出と大切にされていたと聞いたことがあります。
 室町時代のように戦があちらこちらで起こっているようなときには、新しいツバキの品種作りに精を出すなどということはなかったでしょう。平和な時代と、江戸から遠いということで、得られる密貿易などで豊富な資金があってできたことと想像します。
 すでに二輪ほど咲いていますが、その花を見ながら遠い昔と南九州の風土を思い浮かべます。それぞれの木や草花の歴史や由来を知ることで一層それぞれに愛着を感じます。    

2012年3月18日(日)牧師 國枝欣一
正月の3月11日がやってきました。地震が起きたときこの礼拝堂で患者さんとの会話記録検討会をやっていました。教会が大きく揺れミシミシ音を立てていました。電車は止まり、道路は渋滞で参加者は帰宅できず、教会に泊まっていただきました。次の日皆さんは無事帰宅でき、感謝でした。日本の震災というと思い出すのは1923年の関東大震災と1995年の阪神淡路大震災でしょう。今回の震災が他の2回と違うのは規模も大きかったということも有るかもしれませんが、国民的な支援がなされたということ、外国人に対してもきめ細かい情報提供がされているということでしょう。
 関東大震災では何の罪もない在日の中国人、朝鮮半島出身者が殺されています。しかし今回はこういうことが起こらず、逆に中国人研修生達の安全を守るために本人は津波に飲まれて死亡するというようなことも起きました。また発展途上国から農家に嫁いだお嫁さんたちが、地域の困った老人たちを積極的にお世話をするなどということも報道されていました。
 ここに私たち日本人の霊性の変化成長を見る思いをします。現実的には災害を利用して犯罪を起こした人々もいたでしょう。また利己心がむき出しになるような場面も間々あったでしょう。それでも私たちの全体的な霊性は確実に成長していることを知らせてくれます。「和を以て尊しと成す」という精神は、かっては帝国主義に奉仕するプロパガンダの一環として唱えられましたが、戦後の民主主義教育の結果が災害復興への大きな力となっていることを感じさせます。 
 キリスト教徒であろうとなかろうと、悪人であろうと善人であろうと、意識していようとなかろうと主は私たちを常に教え、導かれていることを感じます。感謝の心を持って事態を受け入れ、努力するとき、私たちは天国へと招かれていることを憶えます。東京にも直下型地震が襲うということが現実味を帯びてきています。備えをしっかりとしたいものです。     

2012年3月11日(日)牧師 國枝欣一
正月のスウェーデンボルグの著作を読んでいてその特徴的なことのひとつは人間理解だと思います。私たちは人間というと肉体を持った自分を人間と考えます。しかし彼は人間を「霊」と考えています。この世に生きている私は神の似姿、神の像と聖書には書かれていますが、そこから私たちは自分と同じ形の神を想像します。するとこんな疑問が出てきます。神様は太っているの? やせているの? 背が高いの? 低いの? などなど。
 日本語で「霊」というと何とはなしにおどろおどろしい存在を考えてしまいます。そこから神秘主義に興味を持つ人は、そうした体験を話して自分は霊的な感覚があると錯覚します。あるいは低次元の霊的経験を誇るような間違いも起こしてしまいます。これらはスウェーデンボルグの私たちに伝えたいこととまったく違います。また彼の著作に詳しくなってとうとうとその教説を述べることを誇る人もいますが、それも形は似ていても霊的世界を理解していることとまったく違います。
 信仰は知識ではありません。信仰は生活だということをはっきり知っておかなければなりません。信仰の真理は合理的でもあり、愛と善に根ざしているものです。愛と善は私たちにとっては意図であり、願望であり、欲求であり、感情などです。これらは強く感じたり、弱く感じたり、今すぐ実現したかったり、明日であったり、1週間後であったり、1年先であったりするので把握が難しい領域でもあります。そしてそれは人間の意識の基礎を成すものです。
 その意識を霊といっても良いでしょう。それは形ではありません。形として見えなくても、把握することはできます。その意識が人間です。となると天使や、巨大人としての天界、そして主なる神も違って見えてくるはずです。    

2012年3月4日(日)牧師 國枝欣一
正月の今週の大きな事件は多分犯行当時18歳1ヶ月だった犯人の最高裁における死刑判決が出たことと、30歳の息子とその父母が餓死したニュースではないでしょうか。事件の内容そのものはまったく違うものですが、命が失われる(失われた)という点では同じです。国は国民の生命と財産を守る責任を持っていますが、一方は国家による合法的殺人、他方は生命と財産を守れていない現実です。これは監獄のなかで本当に矯正教育できているのかという問題もあります。凶悪犯で独房入っていればそれだけで学ぶ機会が少なくなります。たとえ雑居房に入れられたとしても再犯率は低下せず、犯行を繰り返す人々が多いと聞きます。教育がその人々にとって妥当ではないからでしょう。刑務所だけで処理できない大きな課題があります。
 他方餓死した家族は困難なときに頼るすべがなかったのでしょう。つらさや困難を聴いて貰える人が近くにいなかったことが伺えます。そこに孤立した家族が想像できます。都会の生活は農村漁村と違って近所とのしがらみが少ないという気楽な部分があります。しかし気楽であってもいざ生活に大きな変化が生ずるとその変化に対する安全安心の保障はされません。
 犯罪の場合、加害者の被害者性ということがよく言われます。犯人となるその人がその成長の過程でさまざまな困難に出会っていることが多いということです。人と人とのつながりが健全でないために犯罪を犯さざるを得ないような状況に置かれるということです。
 どちらの事件にしても人間関係の希薄さは事件の大きな要素になっています。良好な人間関係があって人は安心安全を自分のものとすることができます。教会はそのセーフティーネットの大きな役立ちを果たすことができます。主にある良好な人間関係は、それぞれを生かすものとなります。本物の出会いをこれからも大切にしてゆきたいと事件を通して改めて思いました。  

2012年2月26日(日)牧師 國枝欣一
正月の「奇跡」とは広辞苑によれば「常識では考えられない神秘的出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で宗教的真理の徴(しるし)とみなされるもの。」とあります。こうしたことは聖書の中にたくさん記されています。神は万物の創造者。すべてのものを秩序にしたがって創造されました。自然界は、霊界の表象ですから、わたしたち人間が霊的な過ちを犯すことで、それが自然的なゆがみとなって現れてきます。ですから「奇跡」とは、物質世界に霊界の介入があってその結果が、特殊で常識では考えられないような様相で現れ、人間の感覚から見て異常と見られる現象といえると思います。以下は新教会用語集からの抜粋です。
 霊は、物質や肉体よりはるかに高い自立性を持っており一定の秩序で物質世界を支えています。それが通常の枠を超えて働くとき奇跡になります。主のなさった奇跡の大半はこれです。これは霊的能力が、物質に対し著しく優位に立つときに可能で主の弟子たちが行いましたが、他宗教のみならず魔術師にも可能です。ただ主や善霊は、人の自由、解放を目指しますが、悪霊は人を奴隷化することが目的です。
 スウェーデンボルグが経験した霊界との交流も奇跡と言えます。彼は一時的な死を経験し、霊界で多くの霊に出会い、最後の審判を目撃しています。これは旧約時代の預言者も経験していますが、これらは自然界にいる人間が霊界の方に引き上げられることによって起きます。
主の処女降誕と復活は奇跡の最たるものです。主の人間性は神的肉体をともなって完全に神化されると同時に、マリヤに由来する人間性は完全に消滅しました。これは人類に与えられた最大の奇跡です。純粋の教義を理性で理解しようとする新教会とっても主の降誕は奇跡というよりほかありません。神の全能の力は人類救済の重大な時機に奇跡的手段をとられたとしても不思議ではありません。わたしたちの理性は「奇跡」の存在を認めます。

2012年2月19日(日)牧師 國枝欣一
正月の出エジプト記21章には人に傷害を与えた事例に関しての規定が書かれています。けんかをして怪我を負わせた場合、奴隷を傷つけた場合、飼っている牛が人を傷つけた場合、あるいは井戸を掘ってその井戸にふたをしていなかったために人や家畜が死んだ場合どうするかということなどです。これらはイスラエルの人々が生活をしていく上で必要な法律だったのでしょう。しかしスウェーデンボルグはここに霊的な意味を読み取ります。
 飼っている牛が人に危害を負わせる危険があらかじめ予測され、警告されていたのに事故が起こってしまった場合は、牛も飼い主も死刑になるというものです。警告されていた場合、危険が起こらないようにその牛をよく管理し、その行動を抑制しなければなりませんが、それは霊的には「自然的なものにおける悪の情愛を抑制することであり、それをもし抑制しないなら信仰の真理を損なうのである。」とあります。
 その意味は、主は人の心に語りかける存在であって、人がその心にあるものに気づかないならばその人の中に入って行けないということです。心の中にあるものはその人が何に興味を持っているかというその人の愛の傾向(情愛)です。自分勝手な人は自分の欲望が満たされることだけを考えています。それがその人の情愛ですが、そうしていると主の語りかけ、導きを感知することができないということです。これらは私たちの中では癖になっていることです。
 形は信心深そうに見えていても、実はよくみると別の心が動いているなどということはよくあることだと思います。こうした日常生活の中の「悪の情愛を抑制すること」に私たちは注意深くならなければなりません。私自身もみ言葉と著作に触れて、改めて反省させられました。

2012年2月12日(日)牧師 國枝欣一
正月の「兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」という主の言葉はマタイとルカに出てきます。「兄弟」とは自分と同じように主の教会に属している人のことです。そして「目」は真理の理解力を示し、「ちり」は小さな虚偽を示すので、同じ信仰を持つ他人が真理の理解の面で陥っている小さな誤謬に気づくことを示しています。「梁」は建物の重量を支えるきわめて重要な部分であるので「ちり」と比較するときわめて大きな悪に基づく虚偽、すなわち自己愛や世間愛と言うことができます。
 この箇所は牧師や教会の指導的な立場にある人々に対する警告です。神学教育を受け、専門知識をより多く持つもの、または信仰暦が長く信仰の先達になるような人々に向けた言葉です。知識や経験をより多く持つものは、後から続く者の小さな過ちが気になりますが、当の本人は自分の中にある大きくてしぶとい欲によって真理を見ることを拒否している自分に気づけません。こうしたことは、先達と思っている人間にとって陥りがちな傾向です。
 日本語には率先垂範という最近使われなくなったことばがあります。指導するもの、リーダーはみんなの手本となるように他者にして欲しいと思うことを先ずするという意味ですが、それは先のみ言葉の真逆を示していると思います。自分の中にある悪しきことにより深く気づき、そこから離れる努力をするときに、私たちは謙虚になれると思います。そうしたときに私たちは、意志しなくても、より主に近づく生活ができるようになるのです。

2012年2月5日(日)牧師 國枝欣一
正月の人にはいろいろあります。青年期の若者たちは自分がどのように見られているかということを気にしていることがよくあります。私は他人が私をどのように見ているかあまり気にしていません。でも、自分が何時もたいしたやつではないという感じを持っています。留学中もアメリカ人のクラスで私だけが外国人で有色人種。英語に強いわけではなくクラスでやっとついていっている劣等生という感じが離れませんでした。もうすぐ50に手が届く年齢でもそうでした。
 30代の前半、ある部門の責任者でしたが忘れられない失敗をしたことがあります。担当していた部門のメンバーでしたが結婚式に招かれていたのですがすっかり忘れてすっぽかしてしまったことがあります。さらに後で気づいたことですがその招待は主賓としてだったのです。
 こんなことが起こったのは私がその人の人生の門出に大きな働きをする等という人間じゃないというマイナスの自己認識があったためです。いまだに私の中には自分がいったいどんな人間なのか正確な判断のできない部分があります。それが元で結果として多くの人を傷つけて来ている部分があります。
 自らへのより深い気づきは、ないものを欲するのではなく、与えられているものに気づき、感謝してそれを十分使いこなすことだと感じます。それが与えられている使命に気づくことであり、役立ちを果たすことにつながるのだと思います。感謝する生活は霊的な生活であり、天使と共にいる生活です。それは自分を正当に評価することであり、過信したり、反対に自信を失うことではありません。その点私は修行がまだまだ不足している人間と思います。

2012年1月29日(日)牧師 國枝欣一
正月の人は通常自分は生きているとしか感じられません。生かされているという感じは持てないのが普通ではないでしょうか。しかし生きている自分をよく見つめて見ると生きているという感覚もあやふやになってきます。健康に気をつけている。毎日の食事を考えてとっている。疲れすぎないように心がけているなどといいますが、それが生きていることの証になるでしょうか。心臓を自分で動かしているわけではありません。腸から吸収する栄養も私が吸収しているわけではありません。心臓や腸等の器官を動かしている主体は何なのでしょうか。
 人体のそれぞれの器官は個性的な働きをしています。にもかかわらずそれらが一致して私たちが健康に生きるために働いています。そうした力をスウェーデンボルグはコナトウスという語で表現をしています。これには努力とか推進力と言う訳語が当てはめられていますが、心臓が電気パルスで動き、腸で酵素が働いて吸収されやすいように食物が分解されているということが分かっていても、その力がどこから来るのかは分かっていません。しかし彼はここに霊的な力を想定して森羅万象を説明しています。
 車の部品を1台分用意できれば、大変でしょうが1台の走る車を作ることはできます。しかし人間の持っているすべての器官を用意したところで人間を生かすことはできません。コナトウスは目的に向かう力です。その目的を知ってそれぞれが自分の役立ちを果たすとき私たちの生は充実します。その目的に向かう力は霊的なものを起源としており、その力で生かされているということになると、生きているのではなく生かされているという人間の実体が分かってきます。それが分かると少しは謙虚になれるかなと考えるこのごろです。

2012年1月22日(日)牧師 國枝欣一
正月の数日前の朝日新聞の社説の下の記事に論説委員の一人が東京電力の若い社員に呼びかける文章がありました。今、その現物が手元にないので記憶を頼りに書いているので正確ではないと思いますが、その記事は多くの社員が事故処理のために働いていることをねぎらい、若い社員にこそ東電の改革と未来があることを期待し、励ましている文章でした。この呼びかけを読んでいてそこに血の通う人間の温かい言葉を感じさせられ感動しました。
 電力会社が原発の必要性を説き、電力の安定供給という社会的な使命を果たすために、安全神話をもとに、それぞれの職務を果たしてきた善意で誠実な社員も多くいるでしょう。そうした人々やその家族が肩身の狭い思いをしたり、自分や家族の将来に不安を感じている人達も多くいるはずです。
 日本の歴史の中で震災、原発事故の今は、敗戦と同様に大きな転換期となるでしょう。ところが現実には、政治の場面では党利党略が先行して、この危機にどのように一致して当たるか等の視点がなく、生活に困まり不安に感じている国民目線が殆どないように感じます。
 そんな時にふとイエス在世中のパレスチナを思いました。私たちはそれを霊的に捕らえますが、この時の私の感覚は歴史的なイエスを感じていたのです。ローマの傀儡政権ヘロデ王の圧制とユダヤ教支配の中で人々は苦しんでいました。理不尽に暴力を振るわれ従わされる、税の過酷な取立て。こんな中で出てくるのが、「1マイル行けと言われたら2マイル行ってやれ」、「上着を要求されたら下着も」、「右の頬を殴られたら左も」と言う考え方です。それらの背後には激しい怒りと怨念があることが推測できます。
 でも社説の下の記事は慈愛に富み、疲れているものを元気付け、奮い立たせる高貴なものを感じさせられました。

2012年1月15日(日)牧師 國枝欣一
正月の新聞にイタリア人の政治哲学者の今の時代をどのように読み解くかという見解が出ていました。今年はヨーロッパやアメリカの政治指導者の改選の年です。政治が経済の実態に追いつかなくなり、貧富の格差がますます広がり、先進国の通貨の信用力が下がるという現象が起きていると言うことが書かれていました。またこうした現象に関して未組織の異議を唱える人々が金融の一大都市ウォール街に繰り出し、社会の変革を要求しているという様なことも書かれていました。
 また6日のNHKラジオの朝の番組では今人気が出ている仏像ガールといわれている女性の仏様の話がありました。彼女は専門家である僧侶のような話し方ではなく今日的ことばで仏像を語り、仏教の歴史を語り、本人がそれらの仏像に関してどんな思いを抱いているか述べていました。
 前者と後者は一見全く別のことのように見えますが、専門家である政治家、経済学者や宗教家でない人々の語ることばの方が説得力を持っていると言うことを示しています。その人々の語る生活に根ざしたことばが多くの人の心を打ち、動かしているのです。そして人々は、安全と健康と幸せと平安を求めていると言うことが共通しているように思います。
 私たちは「新教会」を標榜し、旧教会を乗り越えることを目指して来ていますが、主観的にはそうであっても、実は外から見ると私たちこそ乗り越えられるべき集団になってしまっていないかという危惧を持ちます。「新教会」はチュニジアやエジプトの政権を倒した人々や、ウォール街に集まってテント生活をしているような人々の中や、震災の被災地でボランティア活動をする人々や、教義やしきたりにこだわらない形で心の安らぎを求めている人々の中に起こってきているのではないかと感じます。私たちの有り様を深く考え直さなければならない新年と感じます。させられました。

2012年1月8日(日)牧師 國枝欣一

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