教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから

 クリスマスが主なるイエス・キリストの誕生の日と言うことは、異教の日本社会でも誰もが知っていることです。しかしクリスマスはみことばである神が受肉したことを祝っているのだと言うことを知っている人はごく僅かしかいないでしょう。それは「こうして<みことば>は肉となってわれわれのなかに宿られた」(ヨハネ福音書1:14)に由来しています。
  <みことば>を通して神なるエホバご自身が、この世に下り、人間になりました。それはイザヤ書エレミヤ書などに繰り返し出てきます。また神エホバご自身が救い主、贖い主と宣言されています。(イザヤ45:21,22、49:26,詩19:14等)その神が人間性をとられたということは、人間を救い、贖うためにどうしても必要なことでした。なぜならば人間に魂と肉体があってはじめて行為ができるように、神ご自身が人間性を取ることによって始めて地獄が存在する最外部(時間と空間に生きている人間社会)に影響をもたらすことができるからです。
 主がこの世に来られたのは、<みことば>にあるすべての真理を全うするためでした。私たちが神の像として創られ、基本的に選択の自由と合理性が与えられているのは、<みことば>の真理を受け入れられるようになるためです。(このあたりは「真のキリスト教」第2章を読んでください)ですから主が受肉され、この世にお生まれになったと言うことは、天使の住まう天界と人間の住むこの地上を整えるためにはもっとも適切な方法でした。
 それはまさに善き訪れ(福音)でした。クリスマスを祝うこと。それは私たちの中や間にある地獄的なものを追い出すことでもあり、囚われからの解放を意味しています。あたかも自分で努力するように取り組むとき、主からの流入を沢山受けることができます。 メリー クリスマス!

2011年12月18日(日)牧師 國枝欣一

 アメリカには新教会の信仰を6世代も7世代も持ち続けている家族があります。それに引き換え日本では4世代キリスト教信仰を持ち続けている家族は数えるほどです。それが新教会の信仰を持ち続けている家族ということになると精々3世代です。アメリカでは代々続いている家族で、何人もの牧師を輩出している家系が幾つもあります。
 そうした家族に招かれしばらく一緒に過ごすと、信仰が生活の隅々までいきわたっているのを感じさせられます。野田牧師のSSR時代の同級生だった牧師の家族と夏休みを過ごしたことがあります。その娘と息子が神学生で私と同級だったことがその一因でした。彼らのオハイオの教会でサンクスギビングデーを過したこともあります。
 彼らの何気ないしぐさのなかに彼らの信仰を感じました。私たちにこういう伝統がありません。多くの人々が一代目です。個人的なことですが、私も父母は無教会派の信徒でしたし、息子は日本基督教団の教会員です。そうした点では私も平均的な日本人の新教会員 の一人と言っても良いと思います。そして現代のキリスト教会の多くが新教会と同じようなことを考えて実践しつつあります。そうした状況下にあって私たちがスウェーデンボルグ派の教会員であることをどのように示していけるでしょうか。これは私たちにとって大きな課題です。
 著作を読んでいればよいと言うことはいえないと思います。私たちはスウェーデンボルグの指し示しているものを読み取りそれを実践していかなければなりません。その時に私たちの信仰は生きたものになり、家族をはじめとして周りにいる人々に福音を語っていけるのだと思います。そうした意味で私たちは教会でお互いから先ず学び合うことが必要だと思います。

2011年12月11日(日)牧師 國枝欣一

 今週もまた説教の準備のために"General Index"を使い、Potの"Swedenborg Concordance"を手引きにしながらスウェーデンボルグの著作をあれこれひっくり返して読んで説教の準備をしました。これはこの17年間一貫してやってきている私の重要な仕事です。牧師として当たり前じゃないかといわれればその通りです。またスピリチュアルケアの教育機関であるホライズンセンターでは「神の愛と知恵」をテキストにして半年間40時間かけて何回も講義をしています。この準備のために繰り返し著作を読み返します。また関連箇所を調べます。
 でも同時に私は学生時代的に、荒井献、新見宏、高尾利勝、田川健三、八木誠一と言った神学者の人となりにじかに接触して信仰訓練を受けたことも一再ならずあって、その影響は現在も確実に私のなかにあると言わざるを得ません。そして私にとってスウェーデンボルグ神学と相矛盾するものではなく返って私の神学を豊かにするものなのです。
この地球上に「イエス伝」と言う著作がごまんとあってそれを全部並べると地球何周分にもなると読んだことがあります。それが真実かどうかは別にしてもとにかく沢山あると言うことでしょう。このイエス研究が始まったのは18世紀後半にドイツで始まったと言われています。それは「聖書のみ」「信仰のみ」というプロテスタント主義の伝統と「啓蒙主義」の影響から生まれたそうです。
スウェーデンボルグの著作が書かれていたのはそれより100年前、宗教改革からほぼ100年後です。方向性は真反対ですが、その行き着くところは大筋で同じような感じがします。歴史の中に存在したイエス像を求めることは、「私」と言う個人の中で働かれる「主」をイメージすることに大いに役立つと思います。偏見を持たずにそうした見解に触れてみることを薦めます。

2011年12月4日(日)牧師 國枝欣一

 新大陸と呼ばれるアメリカはキリスト教国と理解されていますが、1930年代のクリスチャン人口は30%台だったといわれます。それが60%代になるのは1950年代です。そして沢山の宣教師を世界に送り込みます。アメリカは、プロテスタントの国です。カトリックが支配していたヨーロッパを抜け出し新天地を求めて脱出してそこに神の国を建てようと目指してきた人々によって町づくりがされました。スウェーデンボルグ派もその流れの中にありました。ヨーロッパで住み難さを感じていた人々がアメリカに来たのです。
 ヨーロッパでは一般的にカトリックが保守的でプロテスタントは革新的ですが、アメリカではプロテスタントが先に来てカトリックは後から来たということもあって、プロテスタントが開拓時代大きな土地を取得し大農場を経営するなどして、保守的で、カトリックは後から来たために都市部に住まわざるを得ず、低所得者であったため革新的という面もあります。
 ファンダメンタルという言葉は原理主義と一般的には訳されていますが、アメリカにもキリスト教原理主義者がいます。欧米ではその原理は聖書です。聖書にこう書いてあるということがものすごく力を持ち、人々の生活に影響を与えます。この原理主義の利点は原則がはっきりしており答えは常に原則に戻れば出るということです。考えなくても良いので悩まないですみます。
 スウェーデンボルグ派にも原理主義的な人々がいます。それがコンベンションとジェネラルチャーチとの分離を生みました。一見著作に忠実にと見えますが、大きく時代を俯瞰してみると私たちも時代の流れに逆らうことはできないのだということがわかります。現実を直視しつつ苦しみながらあるべき姿を求め続けること、それが大切なのだと思わされます。主はそうされてきたことを思い起こしました。

2011年11月27日(日)牧師 國枝欣一

 先週、少し古い本ですが、山本七平の「聖書の常識」と「日本人と聖書」を読みました。これらは私たちの聖書理解の対極にあるような本に分類できるでしょうが、だから読まなくて良いと言うことにはなりません。わたし達日本人とは全く異なった文化背景があったり、歴史背景があったり、価値体系の違いがあるなかで生まれたキリスト教ですから、それらを理解して聖書をみ言葉として読む必要があります。
 私たちは文字上の意味と同時にみ言葉の内的意味を把握しようとしますが、そのとき手助けとなるのがスウェーデンボルグの著作です。しかしこの著作を読む時も、スウェーデンボルグがヨーロッパ人で、白人で、貴族階級にあった人であるということを理解して読むことが必要です。彼が霊的経験をしてそれを著作に著しましたが、言語化する過程で、上述のようなことが無意識に入ってくるわけです。その影響は免れることがありません。
 聖書に関する学術研究はものすごく進んでいます。これらの研究から様々なことが分かってきています。2000年前3000年前の様子が分かり、人々の考え方が分かってくるとみ言葉の内的意味も今まで以上に良く判り、正確に理解できるようになります。
 ジョージ・ドール先生はかって授業の中で「現代の聖書に関する研究は、聖書全体との関連を見失わない限り、最終的にはわれわれの霊的解釈と一致する」と言われました。その通りです。なぜ預言者があれほど力を持つのか、イスラエルの王達が預言者に批判されることでへなへなと崩れる場面があちらこちらに出てきます。契約という概念も私たちが通常使う概念と違います。それらはスウェーデンボルグの著作だけを読んでいるだけでは分かってこないところです。上記の本はそうした点で目からうろこを体験させられた本でした。教会にあります。

2011年11月20日(日)牧師 國枝欣一

 ユダヤ教があって原始キリスト教団は生まれました。カトリックがあってプロテスタントが生まれました。カトリックがあり、プロテスタントの諸教会があって新教会は誕生しました。すなわちこうした諸教会が無かったら新教会は生まれなかったのです。スウェーデンボルグの著作の中には確かにカトリックや、プロテスタント諸教会を批判的に書いてある箇所があります。これらの箇所をよんで「だから○○教会はだめだ」と言うことは注意しなければなりません。そう批判するならば、それらのことを自分で良く観察してから批判すべきです。
 スウェーデンボルグの他教会批判は300年前のことです。その間に教会自身も変化してきていると思いますし、神学も、聖書研究も進んできています。知らないことに関しては謙虚であるべきですし、知る努力をすることでわたし達は差別から開放されます。そして信仰の真理に立つことができます。その信仰の真理は善と愛に裏打ちされたものに必然的になりますので、わたし達は優しくも成れます。(AC6707)
 新教会の成立のためには旧教会が必要でしたし、ユダヤ教も古代教会も必要でした。それは過去の出来事ではなく、現在のわたし達の霊性の発達のためにも必要なことだとわたしは考えます。教会の発展はわたし達の霊の成長の過程も示すと考えるならば、そこに必然も見出せるでしょうし、感謝も見出すことが可能だと思います。
 また個別教会としての東京新教会も中渋谷教会があってのことですし、戦争で焼け出され転々とする中で多くの人々の善意と熱意があって今日があると思います。そこには、私たちが旧教会と言っている人々の援助もありました。そうした中で東京新教会があるのです。そうした援助や働きを正当に評価すべきと思います。

2011年11月13日(日)牧師 國枝欣一

 スウェーデンボルグは神秘主義者といわれることがあります。確かに彼は自然界と霊界を自由に行ったり来たりできました。そして失せ物探しや透視をしたり、歴史上の人物が霊界で今どうしているかなど知ることができました。しかし彼自身こうした能力を人々に吹聴し、誇った形跡はありません。彼はこれらの能力を付随的なものとして高く評価はしていませんでした。彼が後半の人生を費やしたのは聖書の霊的な意味を明らかにし、正しいみ言葉理解を伝え、教会を改革しようと、霊的な解釈のための著作を印刷出版していました。
 わたし達の多くが自分の霊的経験からスウェーデンボルグに惹かれたと言うことがあるかもしれません。しかしその経験にばかり囚われていると私たちの霊的成長はかえって阻害され、悔い改め、自己改革、再生ということが起こりにくくなります。これらは換言すれば自己を手放すことですが、経験に囚われているとそれができないのです。
 21世紀に生きるわたし達に必要なことは、スウェーデンボルグが指し示してくれている世界を生きること、またはそこに向けて自分の生活を作っていく努力をすることではないでしょうか。そうした生活を創り出す努力をする中で、わたし達は自分の役立ちをもっと深く意識し、責任を果たし、人々とつながりを持てるようになります。そこに新教会という新しいコミュニティーができるのではないでしょうか。
 自分の経験ばかり話していると相手の言うことが聞けません。相手を聴けない自分を意識することが大切です。それは相手の中に働いている「主」を聴いていないことでもあるからです。霊的経験はわたし達にとって大切なことです。その時こそ「主の」みこころが何であるのかじっくり自分に問うことが大切です。それは自分の内なる「主」のことばを聴くと言うことでもあります。

2011年11月6日(日)牧師 國枝欣一

 旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神と言われる時があります。確かに旧約聖書を読むとイスラエルは何度も神を無視し、離れ、それゆえに疫病が流行ったり、戦争に負け、敵に支配されたりしています。確かに神は怒り、イスラエルを罰しているように見えます。
 しかしスウェーデンボルグは、神は一貫して愛の神だと主張します。そして怒りの神というのは見え方の問題だと言います。悪いことをした子供の親はしばしばその子供をしかるが、親は子供を愛しているではないかと言った例をあげます。子供からみれば怒られたように感じるが、親は一貫して子供を愛していると言うわけです。
また人は罪を犯せばその犯した罪が罰として本人を苦しめるので罪と罰は一体だとも言います。具体的には何かを盗んだとすればそれが何時発覚するのではないかと恐れること、その状態が罰が下されていると言うことだという訳です。ですから神が罰を下すのではなくその人の霊が悪霊と交わることで、悪霊によって苦しめられることによって罰の状態が起こってくるわけです。他人を恨めば、恨むという私の意識が私自身を苦しめます。怒りを感じればその怒りがわたしをくるしめます。その状態は心の柔軟性を欠いて、あることに固執している状態です。
心のやわらかさを取り戻し、思い込みから離れ、視野を広げることができる時、そこに流入が働き、あがなわれ、自分を改革でき、再生が可能になってきます。自分自身の行いを振り返り、罪と罰を自覚し、容易にそこから脱することができない自分を認めた時、私達は助けを主に求めます。その時から私達は悪から離れ、自己改革に取り組み始め、再生への道を歩み始めます。そこに旧約の大昔から変わらぬ愛を持っておわします主イエスキリストなる神が立ち現れてきます。アーメン

2011年10月30日(日)牧師 國枝欣一

 「仕事」は古来から手から手へ渡され、引き継がれてきました。それは洋の東西を問いません。牧畜業、土木業、農業、生産業、商業、どの仕事をとっても、父から子へ、師匠から弟子へと言うように引き継がれていきました。引き継がれることはその業に関する技術的なことにとどまらず、生活全般に渡って手渡されていきました。この手法は人類発生以来、近代に至るまでそうでした。しかし教育が個人から国によってなされるようになった近代に入ると、この手から手へ受け継がれていった仕事は教育機関が推し進めるようなってきました。
 生業(なりわい)とは古くは「五穀が生(な)るように務める業」ですが、そこから転じて職業をも意味するようになりました。近代化が推し進められるようになって、仕事が分解され、経験が無くてもできるようになり、仕事は収入を得る手立てになってしまいました。そうなると生活をつかさどる価値観とそれを実現する匠の技は衰退していきました。技術と生活の分化が起こってくるわけです。
 宗教も哲学も古くは師匠、先生と生活を共にすることから弟子へと伝えられていきました。ですから信仰はそのまま生活でもありました。現代はどんなことも情報を通して入手できる便利な時代です。このことは私達の生活を豊かにした面は確かにありますが、長い年月をかけて手から手へ伝えられてきた生き方の真髄は伝わりにくくなっているとも言えそうです。
 Religion(宗教)という言葉の元の意味は「再び」と「結ぶ」という言葉からできているそうです。それは「神」「主」「師匠」との関係を再び切り結びなおすということです。そして師と仰ぐものから手渡されるものを受け取ると言うことです。この人類の知恵を大切にしたいものです。

2011年10月23日(日)牧師 國枝欣一

 「仏法の教えは、相反する二つを離れて、それらが別物ではないと言う真理を悟ることである。もしも相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。」これは仏教の古いお経の中にある一節です。これは「中道」の大切さを説いたものですが、「中道」の「中」とは両方の極端を離れた自由な立場であり、両方の中間と言うことではありません。両極端を超えることであり、そこに創造性と独自性を開くということです。ちなみに「道」と言うことは実践であり、方法のことだそうです。「二つ」とは苦行と快楽です。善を求め、悟りを求めて苦行することも、快楽に溺れることもだめだと言うわけです。
 スウェーデンボルグは、悪を避けなさいと繰り返して言います。決して悪と戦いなさいとは勧めていません。また人里はなれたところで修業をするようなことも、霊的成長には良くないと言っています。人々の間で市民生活をしながら、それぞれの役立ちを果たしていくことの大切さを述べています。
 ということは、「中道」をスウェーデンボルグもまた勧めていると言ってよいと思います。事実彼の生涯もまたスウェーデンと言う国の発展のために鉱山局の監督官として働き、議員として法律を作り、学問水準を上げようと学術誌を発刊するというような仕事をしてきました。そして貴族でありながら質素な生活をして生涯を送りました。
 私たちは歴史上かって無いほどの豊かで安全な社会に暮らしています。それを心から感謝して、物質主義に溺れることなく、自分の役立ちを発見して、人々と主に仕えて行く生活を作る努力をしたいものです。それを仏教流に表現すれば、「中道」をとると言うことになるのではないでしょうか。

2011年10月16日(日)牧師 國枝欣一

 「二人の主人に仕える事はできない」(ルカ16:13)と聖書にありますが、現実の生活を振り返ると矛盾無く二人の主人に仕えていることは多いのではないでしょうか。封建時代には藩主に仕え、一家の家長に仕えることは当たり前でした。キリスト教徒はイエス・キリストを主と告白したものです。こうした人々の中でこの世の主人に仕えて立派な仕事を為した人々は沢山います。
 この世のルールに従い、隣人のために働くということはごく普通で正しいことではないかと思います。と言うことは私達の信仰において、広い視野に立ち今まで学んできた様々な知識や知恵を駆使して課題に立ち向かうことは必要であり、かつ妥当なことです。この世の知恵を無視してよいと言うことはありません。
 宗教はこの世があると同時に霊的な世界があり、この世の源はすべてあの世にあると言うことを教えてくれます。従って宗教は私達の霊的成長を援助するものです。その霊的な成長は日々の生活の中に現れてきます。ですから神学や教義の問題で対立したり喧嘩になったりすることは馬鹿げたことですし、自らの霊的成長を阻害することです。
 歴史的に見ると宗教が発端となって戦争になり、多くの人々が犠牲になった事例が沢山あります。しかしそれらは良くみると経済的な権益を自分に都合よく守ることであったり、他民族を都合よく支配することであったりしています。スローガンとして大東亜共栄圏や八紘一宇を唱えて太平洋戦争に突入したのは私たちの国です。一人一人の信仰を生活化する中でその輪が世界平和に繫がって行くのではないでしょうか。その時主に仕えるということが大きな課題となります。

2011年10月9日(日)牧師 國枝欣一

 教会の庭に出るときんもくせいの花の香りが漂ってきます。あの暑かった夏が終わり、秋が来たと季節の移り変わりを感じます。彼岸花も色々なお宅の庭に咲いているのを見かけます。今年もたくさんの方々が災害や事故で亡くなりました。また今も地域の復旧、復興のために厳しい環境の下で不眠不休の働きをしてくれている人々がいます。
 この災害や事故から 立ち直る日がやがて来るだろう私たちは心のどこかで思っています。何がそう思わせるのでしょうか。先の大戦からの経験からそう思うのでしょうか。そう思ってみてもあまりピンと来ません。もっともっと前からの私たちに刷り込まれている何ものかがあるような気もします。
 それは記憶、経験とか心理学的なものではなく日本人の霊性のようなものの中に働いている何かのような気もします。日本人に共通な霊的な何物かを感じさせられるのです。
 スウェーデンボルグは「コナトゥス」という言葉を使っているのですが、この言葉を日本語では「推進力」とか「努力」と訳しています。この概念は理解することが難しいのですが、(少なくとも私にはそうでした)、私は解剖されている人間の内臓を見たときにそれが分かったような感じがしました。体内には実にたくさんの別々の働きをする臓器があります。しかしそれぞれの臓器はその個性を完全に発揮しつつ他の臓器と協調して働いた時に私たちは健康になります。そのようにさせる力をコナトゥスといいます。それはすべてを霊的な力で生かす力です。
 そのような力を私達は恵みとして頂いており、季節が変わっていくように、この未曾有の災害に対しても、私たちがさらに成長できるようと試練がここに置かれている様な気になるのです。

2011年10月2日(日)牧師 國枝欣一

 震災、津波、原発事故、台風と災害が続きます。ひとつの災害の上にさらに次の災害も受けている方々を思うと心が痛みます。台風による土石流によってせきとめ湖ができたところでは、この台風でこのせきとめ湖が決壊するのではないかと不安に思います。  私達の人生には思いもかけなかったことが起こります。災害ばかりではなく、生老病死は私たちの大きな人生の課題です。
 私たちがこの世に生まれてくるのはなぜなのか。どうしてこんなに大きな苦難を受けなければならないのかしばしば立ち往生してしまいます。そして悶々とします。この状態を私たちは試練と呼びますが、その試練の先に平安があると学んでいます。そしてその苦難や試練には意味があると考えます。試練の最中にそこに意味を見出すことはなかなか困難です。
 困難ではありますが、それを知っているとその試練や苦難を耐えやすくなることは事実です。夏の酷暑は耐えがたいものです。特にその最中は余計にそうです。しかしやがて秋が来るということを知っている私たちは皆その暑さを耐えます。
 霊的な成長にあっても同じです。先が見えていると信じることでその試練に耐えることができます。その先に平安があると信じられるからです。そして試練は私達の愛を育むものです。そしてその愛は私達の<いのち>の中核を成すものです。と言うことで私は自分の愛を成長させるためにこの世に送り出されたです。試練や苦難は私たちへの霊的な成長のための神からのプレゼントなのです。

2011年9月25日(日)牧師 國枝欣一

 「愛」と言う概念をスウェーデンボルグは広い意味で使っています。一般的にはギリシャ語から愛をアガペー(隣人愛)、フィリア(仲間への愛)、エロス(所有する愛)の3種に分けますが、彼はそれと違って、自己愛と世間愛、隣人愛と神への愛、天上の愛と地獄の愛というように分けます。また支配欲、所有欲などの欲望、それから動物などが持っている本能等も、「愛」と言う形で呼んでいます。
 人間には 肉体的な愛があります。食欲、性欲、睡眠欲などはみな健康維持と子孫繁栄の善を追及する愛です。私達の持っている五感にもそれぞれの欲求を満たす愛があります。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚と言った感覚にはそれぞれ特有の快感や満足感、充足感があります。また感覚から精神にいたる領域で働く愛もあります。名誉、財産、幸運、娯楽、富、地位などを求めていく愛です。これらは「自然的愛」と言われますが、人が地上での幸福を求める愛で、目的によって善にもなり悪にもなります。
 「霊的愛」とは、隣人愛とか神への愛のことですが、教会への愛、天界への愛、主への愛はより一層霊的です。このようにスウェーデンボルグが言う愛は最高度の「愛」を頂点として底辺的な欲求をも全部愛という表現をしています。
 人の死後、本人に残る<いのち>の中核は、その人の愛です。その愛の形でその人の行く天界の社会が決まります。そこがその人の愛にぴったりしたところだからです。今生きている私たちは、自分の愛の傾向をよく吟味してみる必要があります。
    「新教会用語集」アルカナ出版長島達也著より

2011年9月18日(日)牧師 國枝欣一

 安息日を守るという戒めは十戒の3番目に出てくる戒めです。これは創世記の天地創造の過程を見てすべて良い判断された神が7日目に休まれたというところから来たもので、それにちなんで仕事を一切しないで、静かに神と私との関わりを見直す日とされ、そこから日曜日には礼拝を守るという考え方が生まれてきました。これは聖書の字義通りに解釈することから生まれてきた考え方です。間違っているわけではありませんが、そこに霊的な意味を見出すともっと違った側面が見えてきます。
天界の秘儀 9274には「善によって導かれるとは、主によって導かれることです。この状態に至った人は、天界とその平安の静謐の中にいます。この状態は、『七日』『安息日』によって意味されます。」とあります。仕事や人間関係に忙殺され休みも取れないと言う人にとっては、この『安息日』の訓練は重要になります。心を静かにし、みことばを聴き、神との関係を結び直す事は、私たちが本物の人間になると言うことです。
それは個別の教会の日曜ごとの礼拝を守るということにとどまりません。週日であっても、一日の中で静かな時を持ち、自らを振り返り、主と自分の関係を見直し、善なる生活を欲する時に、私たちは心穏やかになり、平安のうちに日々を送ることができると言うことです。主によって導かれる日を送ることができるということです。
ですから日曜日に礼拝を守るということは大切ですが、それを超えて、主に導かれる日々を過ごす為には、主とのつながりを意識する時を持ちなさいと言う薦めです。 

2011年9月11日(日)牧師 國枝欣一

 聖書には主が人を癒す場面がいくつも出てきます。それは主は肉体の面でも、すなわち自然的な面でも、霊的な面でも救い主だと言うことです。ここに私達の信仰が知的になってはならないという主のメッセージがあるように思います。
 歴史的にはユダヤ教会を改革しようと思った人たちがキリスト教会を誕生させましたが、それは律法が人々の命を育てる方向にではなく縛る方向に向いてしまった結果、それを本来の信仰の形に戻したいと思った人々の結果でした。
 イエス様は救い主として、自然的な病気、障害を持った人々を何人も癒されています。それを奇跡と私たちは呼んでいるのですが、それぞれの病気や障害に霊的な意味があり、かつその患った期間にもその人が置かれた霊的な状態があるということが分かると、そこに神であるイエスキリスト深い私たちに対する愛を感じます。
 健康を与えられている私たちは霊的に健康と言うわけではありません。私たちも霊的には罪深い存在です。それは誰でも自分を振り返ってみればわかることです。外的なものはいつも内的なものからの流入を受けて存在するわけですから、罪深い私が今健康を与えられていると言うことは、そこになすべきことがあると言うことです。
 それが何なのかをみことばである聖書をよく読みこんだ時、主が私達の進むべき方向を示してくださると言うことが起こります。それが信仰の生活化だと私は考えています。

2011年9月4日(日)牧師 國枝欣一

 人がもし天地の神にましますそのお方を仰がないなら、天界に入ることはできません。なぜなら天界とはその唯一なる神にもとづくもので、そのお方こそ神であるイエス・キリストです。そのお方は永遠からの創造者としての主エホバであり、時間の中ではあがない主、永遠にいたるまで再生を働きかけられる主です。また同時に、父であり、子であり、聖霊です。これこそ福音であり、宣教のメッセージなのです。    新教会教義サマリー119
 父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊はキリスト教徒にとっては忘れてはならない中心です。この解釈に様々あるわけですが、私たちは、これを一人の人間における意志と理解と行為という比喩を使って理解します。意志はその人の愛の傾向を示すわけですが、何かを為す時にはその理由付け、すなわちその人の理解があります。その理解に基づいて一つの行為が為されるわけですが、意志する人も、理解をもつ人も、行為をする人も全部同一人物です。ですからイエス・キリストを信じることは神を信じることなのです。それを徹底して言い続けているのが新教会です。
 その主なる神であるイエス・キリストが私たちにいつも働きかけておられるのです。その働きを感じてちょっと立ち止まり、ありのままの自分を見つめてみることで、そこに働きかけを見出せるのです。その結果私たちは天界に招き入れられるようになります。頭で考えることではありません。感じることです。こうした時間を意図して持つことが、安息日を守れと言う戒めの中味です。そしてそれが天地の神にましますそのお方を仰ぐことにつながります。頭の信仰から生活の信仰へ、すなわち生きた信仰を持ちたいものです。

2011年8月28日(日)牧師 國枝欣一

 心理学でいう「気づき」は 宗教やスピリチュアルな領域では「悔い改め」とか「回心」といいます。この「気づき」「悔い改め」「回心」は突然生ずることもありますが、多くの場合自分の内面を見るということからおきます。
 ところが、最近自分を見つめる、内省することを殆どしたことが無いと言う人々によく出会います。そうした人々は常に自己正当化をし、合理化し、他人を攻撃、批判し、被害者意識をもちます。自分の課題に目を向けようとしないため、いつも不満であり、不幸です。これらは物質主義社会の中で起こってくる私達の病のような感じがします。                            
 私たちは人類史上経験したことのない豊かで安全な社会に住んでいます。それは真に感謝なことなのに、私たちはもっと豊かになるようにとさらに物を求めます。自分の置かれた場所でどれほど豊かなものが与えられているか見ようとしないため不足感から抜け出ることができません。そして考えることは自分のことばかりです。他者との真の結びつきを忘れています。そこに神が生きて働いていることを見出すことができません。
 今自分に与えられていることに気づけると感謝の念が湧き、喜びに満たされ、与えられている自分の能力を生かすように何をすれば良いのか分かってきます。老人には老人の、若者には若者の役立ちがあります。
 それを発見することは、自分を見つめることから生じてくるのではないでしょうか。、発見できることによって、私たちは神の存在を自分の近くに感じ、自らの行動も変化すると思います。パウロの回心はその典型です。

2011年8月21日(日)牧師 國枝欣一

 「彼女は私の心臓ですが、私は彼女の肺臓です。心臓は愛を表し、肺臓は英知を表しますから、彼女は〈私の英知の愛〉であり、私は〈彼女の愛の英知〉です。ということで、彼女の愛は私の英知を外側から包んでいるのに対し、私の英知は、彼女の愛の内側に内在しています。したがって、あなたが言われたように、私たちの顔には魂の一体化が表れているのです。」結婚愛75(黄金時代)
この一文はスウェーデンボルグが最古代の夫婦に出会った時に、最古代の人が応えたことばです。二人がお互いを尊敬しあっている時に出てくることばでしょう。私の英知の愛ということは真理の実現のための努力は自分のための努力だけでなくそれは彼女のための努力でもあるということでしょう。また彼女の愛の英知とは、パートナーの愛の行為は彼の真理への熱情が背後にあるということです。ですから日常生活の行為はそれぞれ別の形をとっていても二人が願う究極の思いはひとつということになります。
 「彼女の愛は私の英知を外側から包んでいるのに対し、私の英知は、彼女の愛の内側に内在しています。」というような愛の関係にあるカップルは、現代では無いとスウェーデンボルグは言っていますが、離婚率が高まっている我が国ではそれぞれが心臓であったり肺であったり個性的な存在でありながら、なおかつ一致する関係を見出すことはなかなか困難のように思います。

2011年7月24日(日)牧師 國枝欣一

 自己愛とは、自分ひとりの幸福を願うことです。他の人たちの幸福を考えたにしても、それは自分のためです。教会、祖国、人間関係、あるいは同胞市民のためと言っても同じことです。その人たちのことを思ったにしても、ただ自分の名声、名誉、栄光のためです。他の人のためにする善益の中にそれが見出せないとき、心の中で、『いったい何のことだ。どうして自分がやる必要がある。わたしには関係ないことだ』と言わんばかりに、それを無視します。したがって自己愛のうちにある人は、教会も祖国も社会も同胞も愛していないし、その善益をも愛していません。愛しているのは自分ひとりです。(新エルサレムと天界の教義65)
 「自己愛とは、自分ひとりの幸福を願うこと」というのは新教会に属している人であれば誰でも知っていることです。しかし下線部分になるとちょっと複雑になります。教会、祖国、同胞市民のためと思っていると自分の自己愛に気づかないことがあります。今の国会での政党間のやり取りを見ていると「被災地にお住まいの方々」とか言いながら結局は自己愛の塊のような人ばかりという感じがします。現場で汗水たらして復旧、復興に取り組んでいる人々がたくさんいる一方で、党利党略ばかり考えているような感じがするのです。これらを他山の石として私たちはそれぞれ自分の内部に隠された自己愛がないか見つめて行きたいものです。 

2011年7月17日(日)牧師 國枝欣一

 2週間続けて看護学校の合宿研修を行いました。だんだん若者たちは自分の内部を見ることが下手になっているように感じます。40年以上も自分を見つめ続けている私にとってちょっとした驚きなのですが、悩みを抱えていてもそれを自覚したり、それと取り組むことをしないで大人の入り口まで来てしまうようです。ただただ重い気分でそれをどのように扱ったらよいか分からずに来てしまう若者が多いように感じます。
 開けたらどうしようもなくなるパンドラの箱を抱えているようです。また相談事を友人から受けると必ず良い解決策を提供しなければならないという強迫観念のようなものを抱えている若者も多いように感じます。よいサジェスチョンができないと悩んでいる若者もまた多いのです。
 聴くということはパワフルです。それは本来神の声(みことば)を聴くという意味があるからです。神の似姿としての人間は解決策を本人がすでに持っていると考えます。そして事実そうです。ですから本来神の様にじっと聴くということはできないことではないのです。自分の内部を見つめるということは霊的な自分を知るということであり、私の中に住まわれている神のみことばを聴くということにつながるのですが、今の若者の大部分は聞くことを恐れ、結果として自分の苦しさの中であえいでいるという悪循環に陥っているような気がします。この人々にみことばを伝える大きな使命を感じます。 

2011年7月10日(日)牧師 國枝欣一

 「冒涜」に関して新教会は特別な考え方をすると思います。広辞苑によれば「冒涜」は「神聖、尊厳なものをおかし、けがすこと」とあります。冒し汚すものを私たちは一般に他宗教のもの、神聖なものに関する無理解なものと考えがちです。しかし新教会では外なるものではなく内なるものであるクリスチャン自身が「冒涜」する主体だと考えています。
 この観念はとても重要だと思います。なぜならばこのように考えると私たちは自分の言動に注意深くなれます。言動に注意深くなるということは自分の内部人間をよく吟味することと同じです。内部人間とは霊であり、心理的には意図、欲求、願望、動機などということに関連しています。自分が霊であることは気づかないのですが、意図、欲求、願望、動機などは本人が自分の内部に目を向けようとしさいすれば確認可能です。
 新教会の教えを知っていても、それを生活化していなければ、それを大切には思っていないことです。愛しそのように行うことができていないということは、「冒涜」していることになります。とすると私たちは今まで以上に自分に謙虚になる必要があります。真に主を愛することができるように、他人を批判する前に、深く自分を見つめることができるかどうかが鍵になりそうです。 

2011年7月3日(日)牧師 國枝欣一

 私たち新教会に属するものは信仰が本当に私たちを生かすものだと先週改めて思わされる経験をしました。聖書、みことばには文字上の意味と共に霊的内的意味があることがそれの中心になるのですが、カトリックや旧教会の信仰は、宗教がしばしばそこに属するものに霊的な苦悶や悩みを生じさせるということです。それをスピリチュアルな痛みといいます。
 今日しばしば原理主義という言葉に私たちは直面します。原理主義というのは経典に書かれていることを言葉の意義どおりに理解するということです。それはどの宗教にも思想にもいえることです。クリスチャンは時々自分の意見の正当性を主張するために「だって聖書こう書いてある。」といいますが、それは何も言っていないと同じことです。
 また聖書の霊的意義を主張する私たちも、時々聖書の高層批判的な研究を全面的に否定して「こうした研究が信仰をだめにした。」というようなことを言う人がいます。これも短絡的といわざるを得ません。前者も後者も自分の解釈する姿勢に気がついていません。この解釈する自分を吟味することなしにみことばを口にすることは、神のみ名をみだりに口にしてはならないということ戒めを犯していることに気がついていません。300年前に書かれた著作を金科玉条のごとく口にするものはスウェーデンボルグを神にしてしまう危険性の中にいることに気づくことが必要だと思います。

2011年6月26日(日)牧師 國枝欣一

 「神の愛と知恵47」には愛が結びつきであるということが書かれています。夫の妻に対する愛でも、親の子供に対する愛でも、あるいは仕事仲間への愛でも、振り返ってみると確かに「結びつき」だと感じます。愛していれば愛する対象を深く知りたいと思いますし、その対象が喜ぶことを共に喜ぶということが分かります。
 その対象が人であれ、物であれ、事であっても同じです。私たちの多くは趣味を持ちますが、その趣味に関して、エネルギーと時間とお金を費やします。費やしてそれに関して詳しくなります。対象に関して詳しくなるということは、その人の愛の傾向(情愛)を示すといってよいでしょう。     
 私の友人の一人にオペラが好きという人がいます。オペラがあるとチケットを買い、聴きに行きます。国内だけでは足りずヨーロッパまで休暇をとって行きます。また自宅を建て替えたときには地下室を作り、音楽を聴くための部屋を作りました。決して金持ちではありませんがそのことにエネルギーと時間とお金をつぎ込んでいるのです。
 ここからも推測できるように、主への愛、隣人への愛はそこへ私たちのエネルギーを注ぎ込むときにしか起こらないことがわかります。地上にあるもののすべては相応という形で霊の世界と結びついているというのがスウェーデンボルグの見解です。私たちの愛の傾向は私たちの意識であり、愛の形であり、<いのち>なのです。執拗に祈るということは、祈ることに時間とエネルギーを使うことです。それが私たちの<いのち>になるように祈ることです。そのとき、主との結びつきが強くなります。

2011年6月19日(日)牧師 國枝欣一

 「天界の秘儀」6280に「主は、人間性を神性化されることによって、人をあがなわれました。つまり人を地獄から解放されました。従って、主はご自身の神人性の面から見て、あがない主とよばれます。」とあります。「あがない」という言葉は一般的な言葉ではなく、宗教的な言葉です。「あがなう」とはお金を払って救い出す、買い戻すということです。
 主がご自身の命を差し出すことで私たち人間を地獄から救い出されたということですが、そう考えてもちょっと抽象的で頭で理解するだけになってしまう人も多いのではないでしょうか。
 昨日まで5日間、哲学的人間論という講座を担当していました。その中に半年ほど前にお会いした女性がいました。虐待と暴力の中で育ち自殺を何回となく計り、今日まで来たそうです。その方の表情が今回は以前とまったく変わり穏やかな表情になり、ふくよかさと優しさが漂っていました。何か大きな変化がこの間にあったのか尋ねてみると、「半年前の講座に参加したことが大きかった。」と言っておられました。それまでは人と距離をとり親しくなると言うことはほとんどなかったそうです。主がその彼女を「あがなわれた」のです。その結果長い期間苦労していた母子関係も気にならなくなってきたとも言っておられました。
 主の「あがない」は彼女がそうであるように、自らがそこで起こっている事態を違う角度から見るということによって起こり、全く主体的な働きのように思えますが、そこに主の流入を感ずる心の目を持つことで私たち自身の生活が変化します。そこに感謝の気持ちを持てると主の「あがない」が実感できます。それは知的な理解と全く違います。

2011年6月12日(日)牧師 國枝欣一

 スウェーデンボルグの著作の中に「神の愛と知恵」があります。この著作は普遍宗教的な著作だとよく言われます。その47節に以下のようなことが書いてあります。
 「愛自体は、自分を愛するのではなく他者を愛すること、そして、愛を通して他者と結びつくことです。愛自体はまた、他者から愛され、結びつけられることです。どんな愛でも、その本質は結びつきです。あるいは<いのち>です。それはうれしさであり、愛らしさであり、楽しさであり、うるわしさであり、至福であり、祝福であり、幸福です。」
 これがひっくり返ると、愛自体は、他者を愛するのではなく、自分を愛すること、そして愛を通して他者を支配することです。他者からあがめられ、賞賛を与えられることですということになります。前者は隣人愛であり、後者は自己愛だいうことはすぐお分かりいただけると思います。 
 読めば簡単に分かりますが、それが自分のこととなるとなかなか分かりにくいのです。なぜならば愛することはその形はどうであれ私たちは日常的にやっているので、それが習慣化し癖になっているので、自分を深く点検しないと分からないのです。一人静かに瞑想すること、祈ることは自分を点検することでもあります。その時に私たちはそれと意識できませんが、主からの流入があります。共に礼拝を守るということは、愛することを学び、主との関係を結びなおす時です。自分の愛を点検し、実践してみる場です。聖餐式に参列して主と私の関係を振り返りましょう。

2011年6月5日(日)牧師 國枝欣一

 先週一週間、主の業についてあれこれ読んでみたり、考えたりしていました。当然のことですが、主の業は例外なく常に主の意志に伴ったものです。またそれは同時に受け手の側の信仰を通じてなされるものです。それがはっきり示されているのが会堂司ヤイロの娘が生き返る話、長い間出血に苦しんだ女性の話、100人隊長の僕の話などです。
 それらの話から透けて見えてくるものは、私たちの信仰の有り様が常にそこで試されるということです。ヤイロはともかく、病気を患っている女性にしても、異邦人である100人隊長にしても単純で明確な確信(信仰)を持っていたということです。この単純明快な信仰は教義を細かいところまで学んでいるという形とは違いますが、頭の理解でなく生活化しているところ、すなわちその人の意志になり、それが行為となって現れているところに特徴があります。私たちの信仰が生活化しているか、問われているのです。
 そして善きものはすべて主から来る、主からしか来ないということを実感として体験していることが欠かせません。こう感じられて生活をしていると、自我が動かず穏やかになれます。私たちにとって自我を捨てることは容易ではありません。しかし聖書をみことばとして読み込んでいくと、全存在の支配者は主だということがだんだん分かってきます。それが分かってくると、私の中の傲慢さが少しずつ小さくなっていくような感じがし、生活が楽になってきます。ありがたいことです。

2011年5月29日(日)牧師 國枝欣一

 先週の礼拝後の総会は主の存在を実感させられるものでした。この数年間は今まで教会を支えてきた会員の方々がリタイアし、老齢化して教勢も衰えていくばかりでした。役員の中には自然消滅して行くのではないかという言葉さえ出てくるような実態でした。一時は教会の年間予算が400万に届くのではないかと思われていましたが、それも近年は200万円台にまで小さくなってきていました。
 ところが昨年度後半から礼拝出席者が増えだし教会の人間関係も生き生きしたものになってきました。HPを見て来てくださった方、ゼネラルチャーチの集会に出ていた方、幾つかの教会を見てご自身でこの新教会を選んだ方、ホライズンの講座に出ていて礼拝にも来られるようになった方、葬儀に関わらせていただいたことがご縁になった方、みなさんそれぞれのきっかけで一様ではありません。主の用意してくださった様々な回路を通じて来て下さるようになりました。
 根気強い種まきの必要性を改めて思いました。その収穫期は主の時によるわけで、私たちにはそれが見えていません。信じてし続ける時にその努力が報いられるときがあるのだと思います。それが私たちの生活になり、し続けることでそれが私たちの<いのち>になるのだと思います。霊的に再生する道が用意されているのを感じます。ありがたいことです。

2011年5月22日(日)牧師 國枝欣一

 先週の礼拝後、5人で昼食をとりました。とてもすがすがしいお天気の日だったので食後近くの真言宗のお寺に行きお庭を拝見させていただきました。シャクヤクも藤ももう終わっていましたが、緑豊かなお庭をめぐらせていただきました。楽しく心豊かになれた一時でした。感謝!                      
 その帰り道、杉之内さんと日本エルサレム教会の話になりました。スウェーデンボルグの著作の大半を翻訳された柳瀬芳意牧師の努力によって建てられた教会です。しかし柳瀬牧師亡き後、教会運営に関して内紛が起き、裁判にまでなって数年経つ教会ですが、裁判でひとつの結果が出ても、教会が教会となることは至難の業です。
 この話を聴いて心が痛みました。礼拝を維持して主を賛美し祈る共同体づくりは外面的なことだけではなく、私たちの生活の基本となる霊の世界、こころの内が改革されなければなりません。そこには自他に対する和解とか赦しがどうしても必要です。
 私はこの間、心を痛めていましたが、何も具体的には動きませんでした。動けるような状態ではなかったのです。私たちの兄弟関係にある教会です。見捨てるわけには行きません。しかし私たちに必要なことは今こそみこころに聴く姿勢を持つことです。その中で私たちのできること、すべきことをきちんと知り、それを行うことです。祈りつつより良い施策を持ちたいものです。

2011年5月15日(日)牧師 國枝欣一

 連休明けの最初の聖日です。心も体もリフレッシュして日常に戻ってこられたのではないでしょうか。実家に戻り親御さんと久しぶりにゆったり過ごされた方、日ごろの忙しさから解放され旅行をされた方、趣味にいそしんだ方、ボランティアをした方さまざまな過ごし方があったと思います。またこの災害時にずっと勤務という方もおられたと思います。
 私の義理の息子は経産省に勤めていますが、彼の災害直後のしていたことは全国へのお棺と骨壷の手配とその輸送でした。この間多くの人々に助けられたといっていました。本庁勤務ですので現場を知らないということを意識していて、勤務ではない休日を利用して若い部下を誘って被災地入りをしていました。岩手と宮城は行ったので後福島を訪ねることを計画しているようです。今回は「キャンナス」という看護婦を中心とするボランティア組織の仲介で東京からボランティアパイロットのヘリコプターで現地入り、薬剤師の娘も何か役に立つかもしれないとヘルメット、軍手、ゴーグルを持って同行しました。さまざまな課題を抱えて二人は戻ってきました。
 役人はとかく批判されがちですが、若い役人の中にさまざまな壁にぶつかりながらも、現場のニーズを踏まえつつ施策を作ろうとする集団があることを知りうれしく思いました。同時に今回の災害が、多くの人々につながりを意識させ、人々のために生きることの大切さを改めて知らせてくれているようです。これも主が私たちに恵んでくださったものと、<いのち>の復活のときに感じさせられたゴールデンウィークでした。さあ、新たな<いのち>のスタートです。

2011年5月8日(日)牧師 國枝欣一

 今日は復活祭、イースターです。2000年前、ユダヤ教の人々は救い主を待ち望んでいました。祭司、律法学者達はもちろん救い主、メシアを心待ちにしていました。教えを良く知っていた人々が、イエスキリストを神殿から排除し、殺してしまったのです。一般の人々はローマの支配から自由にするこの世の王を救い主と考えていました。主が意図していたことは、初めから天界の秩序を回復し、天の王国を支配することでした。すなわちこの物質世界の元になる霊的世界を整えることであり、しかしお弟子たちも当時はそれを理解していませんでした。
 福音書の中では三度主の受難と復活が予告されています。文章として見ると実にはっきり書かれているので、理解しやすいと思いますが、それが現実の問題として「今、ここ」の問題としてどういうことなのかを考えると、そう簡単ではありません。私たちはどうしてもこの世的、自然的に理解してしまうからです。
 しかしそれはイエス様の時代であろうと現代であろうと同じです。霊的な視覚、聴覚が開かれなければ理解することができません。現に私たちは新教会の教義を与えられ新しいエルサレム教会を標榜していますが、私たち自身が著作を固定的に理解したり、キリスト教会の伝統に縛られていると、主の存命中のユダヤ教の宗教指導者のようになってしまう危険性が十分にあります。
 主は復活され,再臨しておられるという信仰は、頭で知的に受け入れ、それを大切なことと受け入れ、そのように生活することです。主が私という教会に住まわれ、いつも共に居る生活をすることです。謙遜に愛を持って生きることです。それはとても具体的なことです。

2011年4月24日(日)牧師 國枝欣一

 先週、今週と三十代青年の刑事事件に関わらざるを得ませんでした。二人とも長い付き合いのある青年でご両親ともお会いしたことのある青年たちです。二人は個人的には善良で、心優しい青年ですが、社会参加しにくい傾向を持っています。知的障害、精神障害が疑われるのですが、両方とも軽いので公的支援が受けにくいという共通点があります。そのためにその障害を克服できず、家族は悩み、本人も長い間苦しんでいます。
 犯罪を犯し刑に服している多くの人々は上述のような環境にある人々だといわれることが時々あります。刑事罰を受けて、矯正教育を受けてもその効果は疑われています。こうした中にあって成果を挙げているのは、アルコール依存症を克服するためのAAというグループです。彼らの教育プログラムは12ステップという名でよく知られていますが、その条文をみんなで唱えることからその集会ははじまります。
 その第1条は、アルコールに対して自分は無力であるということを宣言することです。それは霊的な観点から見ると自分を明け渡すということです。明け渡すことから治療の過程が始まるのです。またこのグループの特徴的なことは自助グループだということです。依存症を克服した者が依存症の人を援助するというのが特徴的です。彼らの経験から患者さん達がおかれている困難をよく理解できるからです。
 彼等に関わらせてもらいながら、彼等は私自身がもっと自分を明け渡し、愛することを学ぶようにと送られて来た人々と感じつつ、霊的生活と現実生活をどのように変えればよいのか、どのような人々と繋がればよいのか模索中です。繋がりの大切さを思わされています。

2011年4月17日(日)牧師 國枝欣一

 東日本大震災、過去に経験したことがない大津波、それによる原子力発電所の事故と放射能漏れ、こうした衝撃的な体験をしている私たちですが、直接被災しなかった私たちの多くが被災者のために何かをしたいという願望を持っているのではないでしょうか。何かできることをしたいという願望は「愛」から出てくるものです。プロゴルファーが自分の1年間の賞金を全額義捐金として提供する、ケイタイ会社の社長が個人財産を100億差し出すとか、自らの役員報酬を役員をし続けている限り提供するなどということは、日本人に共通する「愛の傾向」が働いているということを示しています。一般市民の募金もかってないほど集っているという報道もありました。
 このような命の危機的な状況があっても日本人は混乱状態にならないというのが世界の驚きになっていますが、私はこのような状態は日本人の霊的状態の高さを示しているのではないかと思います。尖閣諸島の領有権の問題、北朝鮮の日本人拉致の問題、北方領土返還の問題などの場面で日本外交の弱腰が叫ばれることがありますが、日本人の霊性という観点から見ると、実は私たちの冷静の高さが、そのように見えさせるという面もあるように思います。
 この大災害が私たちの生活をさまざまな形で圧迫することは間違いないでしょう。しかし誰もが復興することを信じていると思います。それは個々人の生活再建への努力もありますが、私たちには主の流入が豊かに働いているのです。それがあってさまざまな職種の人々の誠実な働きが支えられていると感じています。

2011年4月10日(日)牧師 國枝欣一

 私たちのスウェーデンボルグ神学の基本用語に「愛と知恵」「善と真理」「意志と理解」というのがあります。それらは神から発するものであり、それを受ける天使や霊の受け皿であり、最後は人間がそれらを受け止める場を示します。天国と地獄は神から発せられたものをどう受け取るかの違いの世界です。
 頭で理解することはそれほど難しいことではないような気がします。スェーデンボルグはそれを実に明快に説明してくれているからです。ところがそれを自分の生活と重ねて考えると実際にはなかなか難しいです。善なることを教えられたり、真理を示されてもそれを素直に受け入れられない「私」が存在するからです。
 この「私」は善なるものを示されても真理を目の当たりにしても、過去の自分の経験に親しんでいることもあって、それらをなかなか受け入れることはできません。それよりこっちの方が良いのだという自分の情愛が無意識に働くからです。これを意識化することが実に難しいのです。
 それを癖と私たちは呼んでいますが、私もこれで長いこと苦しんでいます。自分が善意のつもりでやっていても相手に不快感を与えたり、気づかないでやっていることが相手を傷つけていたりするからです。その上多くの場合、不快感を感じた相手、傷ついた相手はそれを「私」に伝えてはくれません。ただ去っていくだけです。この繰り返しを神の視点で見ると地獄です。
 教会は「主への愛」や「隣人への愛」で成り立っているものです。そして教えられていることを自分の生活に落としこめるようになるために、相互批判、意見の交換、感情の交換ができるよう相互にオープンでありたいものです。そこに主の流入、精霊が働くのです。  

2011年4月3日(日)牧師 國枝欣一

 11日の東日本大地震から1週間。福島の原発事故は多くの専門家が懸命に取り組んでいるにも拘らず、その解決の見通しが見えない状態です。こうした事態にスウェーデンボルグ神学はどう応えているでしょうか。
 新教会に集う私たちは「主は決して私たちを罰することはない。」旧約新約の「神は愛である」ということです。しかし私たちは「なぜ私たちはこんな大きな災害にあわなければならないのか?」と言う疑問を持たざるを得ません。「なぜこんなにも多くの人々が死ななければならないのか?」こうした問いはスピリチュアルな痛みから出てくる問いです。ここに「愛はあるのか」と思わざるを得ません。しかしこうした問いを持つ私たちが今ここに生きていると言うことそれ自身が恵みです。この問いは私たちが何かを知り、そこから学び、それを大切なこととして何かをすることができます。
 ジョージ ドール先生からお見舞いのメールをいただきました。その中に私たち自身がその事態に対してどのように応えるかが前述のような問いへの答えの一部であり、「神は愛である」を実践するときにそれは私たちのものとして強固なものになるということでした。
 ですから私たちができることをする、被災地を思い、お金を出せる人はお金を出す、物を出せる人は物を出す、電気や油を節約できる人は節約する、買いだめに走らないといったことが神は私たち一人一人を愛してくださっていると言うことにつながるのです。あたかも自分自身でできることを一生懸命するときに、私たちは主とつながり、主からの流入を沢山受けるということになるのです。祈りつつ自分のなすべきことをやっていきましょう。それが復興への途に参与することにもつながります。  

2011年3月27日(日)牧師 國枝欣一

 11日の東日本大地震から1週間。福島の原発事故は多くの専門家が懸命に取り組んでいるにも拘らず、その解決の見通しが見えない状態です。こうした事態にスウェーデンボルグ神学はどう応えているでしょうか。
 新教会に集う私たちは「主は決して私たちを罰することはない。」旧約新約の「神は愛である」ということです。しかし私たちは「なぜ私たちはこんな大きな災害にあわなければならないのか?」と言う疑問を持たざるを得ません。「なぜこんなにも多くの人々が死ななければならないのか?」こうした問いはスピリチュアルな痛みから出てくる問いです。ここに「愛はあるのか」と思わざるを得ません。しかしこうした問いを持つ私たちが今ここに生きていると言うことそれ自身が恵みです。この問いは私たちが何かを知り、そこから学び、それを大切なこととして何かをすることができます。
 ジョージ ドール先生からお見舞いのメールをいただきました。その中に私たち自身がその事態に対してどのように応えるかが前述のような問いへの答えの一部であり、「神は愛である」を実践するときにそれは私たちのものとして強固なものになるということでした。
 ですから私たちができることをする、被災地を思い、お金を出せる人はお金を出す、物を出せる人は物を出す、電気や油を節約できる人は節約する、買いだめに走らないといったことが神は私たち一人一人を愛してくださっていると言うことにつながるのです。あたかも自分自身でできることを一生懸命するときに、私たちは主とつながり、主からの流入を沢山受けるということになるのです。祈りつつ自分のなすべきことをやっていきましょう。それが復興への途に参与することにもつながります。  

2011年3月20日(日)牧師 國枝欣一

 3月11日の地震には驚かされた方々は多いのではないでしょうか。各地に被害が出ているようです。私は礼拝堂でスピリチュアルケア東京というカトリックの方々が中心のグループのスーパービジョンをやっていました。教会の屋根は軽く潰れることはないと思っていましたので心配をしていませんでしたが、50代60代のご婦人方でしたので、とりあえず机の下に避難していただきました。ところがすべての電車はストップしてしまい、帰ることができなくなったので、教会の牧師館を開放して泊まっていただきました。
 次の朝のこともあり、食料の買出しに行き、ありったけの布団、毛布などを出して寝ていただきました。その間に余震が何十回も続き、教会員のご家族の安否を尋ねるべくお電話をしましたが電話はつながりませんでした。私の家族は以前から地震が起こったら九州佐賀県の親類宅に連絡をすることになっていたので佐賀県経由で家族と連絡を取り合うことができました。
 教会の会員同士の安否確認の方法も考えておくべきだと感じました。教会も、火事さえ起こらなければ避難場所のひとつにはなれるなと感じました。  

2011年3月13日(日)牧師 國枝欣一

 先週の金曜日でホライズンの下半期の講座が終わりました。隔週1日4時間の10回の講座で、ほぼ半年間かかります。しかし全員が1日も休まず出席するほど熱心な人々です。その中にクリスチャンの方もいます。その方が言います。教会の中ではこんなに自由にしゃべれない。大正大学に事務局を置いている国際宗教研究所の理事はキリスト教会は内向きではないか。なかなか協力を得られないと言っていました。今教会では内部でエネルギーを使い果たし外に向かう力が衰えているのでしょうか。
 キリスト教がユダヤ教から分離した頃、キリスト教は外に向かって(異邦人伝道)行きました。これが力になりました。教会の外には救いを求めている人々がたくさんいます。にもかかわらず私たちはこうした人々を教会に招くことができません。なぜなのでしょうか。私たちの信仰が、聖書の時代のユダヤ教のように形骸化していないでしょうか。
 神によって生かされているという実感をお互いに持っているでしょうか。教会の中で自由にものがしゃべれているでしょうか。どのようにしたら心を開けるでしょうか。私はホライズンの学びの中でできることを教会の中でもやってみたいと思います。  

2011年3月6日(日)牧師 國枝欣一

 先週の金曜日は里親の会に招かれて話をしました。新教会のメンバーの中にも里親になって小さな子供を育てている方がいますが、日本ではヨーロッパ、アメリカと違い里親制度がなかなか浸透していきません。神学校にいた時チェコ人の夫婦の子供3人はみな里子でした。彼らは貧しく一パックの紅茶を鍋で煮出してみんなで飲む、ビンカンの収集日には夜近所を回りデポジットの缶を集め、スーパーにもって行き換金するなどしていました。日本では子供を育て上げてから里親になるというケースが多いのですが、欧米では若いカップルが里親になり、自分の子と一緒に育てるというケースがたくさんあります。会場には子育てを終えた熟年夫婦の間に里親希望の若い人が何人かいました。若いといえば大学生が二人いました。彼らは卒論に里親制度を選んだようです。またかっての職場のスタッフが児童相談所のケースワーカーとして働いており、会場にいました。不思議な縁を感じました。そしてこの人々は新しい魂を持った新教会に連なる人々という感じがしました。この縁はこれからもつながっていくような感じがします。10年ほど前に種まきをしたものが育ってきているのです。里親に魂のケアのできる人が必要と感じました。

2011年2月27日(日)牧師 國枝欣一

 日本の教会は、明治期に主に士族の人々に伝えられました。武士階級の人々は江戸末期には知的な階級に属する人々でもありました。ですから新しい社会の幕開けと共にこの人々が建国のために大いに働きました。その人々とクリスチャンとが重なりました。クリスチャン人口は大きな集団にならなくても、教育、社会福祉などの分野で大きな影響力をもち、それは今日までつづいているものが少なくありません。
 しかし教会を構成するメンバーは朝鮮戦争以降今日まで一貫して減少傾向が続いています。新教会はこうした時代にあって「聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から下ってくるのを見た。」はずですが、東京新教会の実態は旧教会の傾向となんら変わりないように感じます。   
 今、世の中は霊性(スピリチュアリティー)の重要性が叫ばれ、さまざまな動きが出ていますが、新教会を始め他の教会もそれを取り込めていません。何かがかけているのだと思いますが、その何かがつかめません。ホライズンや“Be!”の活動は新教会の大きなうねりの一部です。使命感を持って続けることの中に何かが始まるのかもしれません。安息日が真に神との関係を思い起こす時となるよう模索を続けていきたく思います。

2011年2月20日(日)牧師 國枝欣一

 先週、3歳児を持つ母親から面白い話を聞きました。就寝時子供と布団に入ると子供が突然「○○ちゃん、大黒さんに言われて、踏切わたってママとバーバとチチのところに来たの」と言ったそうです。母親は驚いて「大黒さんて誰?」と聞くと「お爺さんだよ、神様みたいな人!」と言ったそうです。このような話はあるということを聞いてはいましたが知り合いの中にそうした子供が出てきたことに興味を感じました。ものの本によると、5歳くらいまでの子供にはこうしたことを言うことが間々あるそうですが、この話を聞いて生まれる前、それも肉体をもつ前の様子を語れる子供がいることで、子供にとっては大人以上に霊の世界が身近に感じられるのだと感じさせられました。大黒さんと言ったのは彼の生活の中に大黒様が身近な存在なのでしょうか、それは聞きませんでしたが、踏切を渡ってというのは、この子は電車が好きで踏切から離れないと母親から聞いたことがあるので、この子の生活体験から出てきた言葉なのだと思います。でも神様みたいな人と3歳の子供が言うところに興味が惹かれます。私たち大人が神の真理に目覚めるためには、大人でありながら、この子のような純真さを取り戻すことの必要性を感じさせられます。多分それを老人の無垢というのでしょう。欲にまみれている自分を脱却して、早くその領域に近づきたいものです。

2011年2月6日(日)牧師 國枝欣一

 私は看護専門学校や大学の看護学部で人間関係論を教えていますが、ある時2年生の学生に「何で看護に人間関係論なんて必要なの?」と訊かれてびっくりした事があります。彼女の中では医療器具を使って患者に何かをする事が看護であってそこには人間関係などということなどは入り込んで来ないということのようでした。入学前の高校生が言うならば「そんなこともあるかな」と想像しますが、入学し1年半学んでいる学生の言葉として大変驚かされたわけです。学ぶことの中に科学的論理的に見ることは教わっても愛すること尊敬することは入っていないわけです。医学部も同じで科学者として対象である患者を精密に診ることは訓練されても、そこに居る人間を掛け替えの無い者として見る目は養われていないのです。名医といわれている医師の手術の場面のドキュメンタリーを見た事がありますが、そこでの患者の扱われ方がまるで物体のように扱われていると感じたのは私だけでしょうか。「善なることは全て神から、悪しきことは全て人間から」というスウェーデンボルグの言葉がありますが、人間の生命を救う業は天使のレベルに達していても、その業や知識をいただいていることに感謝の念を持たないとそれらは容易に悪魔化してしまうと感じました。

2011年1月30日(日)牧師 國枝欣一

 科学の発展、医療の進歩には目を見張るものがあります。素人の私たちには科学や医療が私たちの生活の困難を殆ど解決してくれるのではないかと思うほどです。科学や医学の世界では完璧な客観性を求められます。こうなると医学は特に単に身体組織をいじったり、そこに化学変化を引き起こしたりする作業になってしまいます。その結果患者を癒す力が衰えてきてしまっていると警告を発する医師達がいます。そこに愛と思い遣りという触媒が欠けているというのです。聖書は「神は愛なり」と教えています。また「神は一なるもの」です。科学も医療の発展も私たちが神に由来する愛を持って利用する時、それはみんなが一つとなるために有効なものとなるのではないでしょうか。そこに地上に於ける天界の創造が可能になるように思います。

2011年1月23日(日)牧師 國枝欣一

 重度の障害を持つ人に対しては昔と比べれば多くの援助が得られる時代となってきているように思います。その点では確かに住みやすい社会になってきているでしょう。しかし高校全入時代になってから、従来境界線にある人々や軽度の障害を持つ人々を受け入れられた職域が無くなってしまい、こうした人々が縦割り行政の中で落ちこぼれてしまうという現象が大きくなってきているように感じます。先週は一人の青年(軽度の精神障害、知的障害が疑われる)に関して北海道や都の精神保健センター、福祉事務所、警察などに電話しなければなりませんでした。北海道のホテルや食堂などにも電話しなければならなかったのですが、みんな感じの良い方々で、それなりにこの青年に関して共に考えてくれる人々でした。
 家庭は崩壊してしまい、一人暮らしです。生活保護と障害者年金で生活している青年ですが、日常生活の支援を必要としています。お金を与えられてもその管理ができないからです。その結果警察のお世話にもならざるを得ませんが、障害があると言うことで罪は問われません。地域の教会として、教会はこうした人々のために、機関と機関をつなぐ役目にもなれるかなと思いました。わたしたちの役立ちは時代と共に変化もすると感じました。

2011年1月16日(日)牧師 國枝欣一

 あけましておめでとうございます。
 新しい年を迎え改めて新教会の有り様を考えました。わたしたちは新教会員であるといいながら旧い教会の枠からなかなか出られないでいるのを感じます。それほど旧いキリスト教会の価値観に縛られていると言うことでしょう。朝日新聞の連載に「孤族」という欄がありますが、いかにわたしたちの世界が孤立化してしまっているかが分かります。関係の切れてしまった人々がいっぱいいます。それは老人ばかりではなく青年も働き盛りの壮年の人々にも沢山います。
 「助けて!」と他人に言えない、言える関係にないということが問題です。本音で語り合える関係が無いのです。多くの人が悩みなんか無いと言うように振舞っていますが、そうしていればいるほど孤立化し苦しくなっていきます。
 新教会員であるわたしたちはもっともっと喜びや苦しみや辛さを、互いに自由に出せる関係を作って行きましょう。そのためには勇気が要ります。でもそのちょっとの勇気を持つことによって、私たちは楽になれ、「助け手」を発見できます。そして「助け手」の中に救い主を見ることができるでしょう。お互いにもう一歩出る努力をする年としたいものです。

2011年1月9日(日)牧師 國枝欣一

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