教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから

 最近「『わたし』真実と主観性」と題する本を頂きました。デービッド・ホーキンスという著者は欧米ではよく知られた精神科医として意識と科学との関係を明らかにしつつ、霊的世界の真理に対する誤解を解くべくさまざまな活動をしている人のようです。アメリカの精神医学会の終身会員であり、米国聖公会やカトリック、禅センターのコンサルタントをしたり、国際外交の長年の課題を解決するコンサルタントなどもして、世界平和にも寄与している人のようです。
 このホーキンスと言う人は現代のスウェーデンボルグと言った感じがあります。「わたし」を読んでいる限りは実に論理的であり、分かりやすく神の臨在を「自己」という表現で示しています。そしてキリスト教も仏教も横断するように、統合的にその性格と違いを表現しています。
 私は個人的にもこの45年間し続けてきたことが何だったのかはっき り捉えられるようになったような感じがしています。「The Eye of the I 」と「パワーかフォースか」とこの「わたし」は彼の三部作といわれているようですが、ぜひ残りの二作も読んでみたいと思っています。「パワーかフォースか」はすでに図書館から借り出してあります。
 どれもかなり厚い本なので値段も高いです。図書館に入れてもらって、借り出し読んでみることをお勧めします。新教会の新しい発展の形を見るような感じもします。

2010年6月27日(日)牧師 國枝欣一


  仏教と殆ど無縁と言ってよいほどの私の環境ですが、土屋さんのご主人のご病気に関わらせていただいた時に、教会で葬儀を挙げたらお寺の墓地に入れるかと言うことが問題となり、ご夫妻と共に真言宗のお寺の住職さんにお会いすることになりました。住職さんのお話は興味深くスウェーデンボルグ神学と似ているところもあり、結果としては土屋さんのご主人の葬儀は私が司式をして俗名のままお寺の墓地に入ることができ、土屋さんは満足して旅立って行かれました。それ以来真言宗の歴史、空海の人となり、空海の教えを学んできましたが、空海は権力や当時の仏教を無視せずにしかし常に一定の距離を保って来たことに興味を惹かれています。国法は究極的には仏法と重なると言い、都から離れた高野山に根本寺を建てました。
 スウェーデンボルグは 国の経済を支える重要な機関である鉱山局にいましたし、国会議員でもありましたが、最終的にはそれらを全部止め、彼は聖書の内的意味を解き明かす著作活動に専念しました。政治や権力とは距離を置きながら、教会の統合化と改革を志したといえると思います。最古代教会、古代教会、ユダヤ教会、キリスト教会、新教会という流れは、空海の密教と顕教に分けそれを10段階に分類した考え方に通ずるものを感じます。

2010年6月13日(日)牧師 國枝欣一


 もう25年も前のことですが、通関士受験科という講座の責任者だった事がありました。講師はみな税関OBで、港湾関係の会社に天下った人々でした。年齢的には60歳前後の方々でした。毎年講座の評価会をするのですが、講座の話が終わると出てくる話はお墓の話でした。40代の私にはピンと来ない話でしたが、牧師になって私の頭の中にずっとあることのひとつに教会のお墓があるといいなということがあります。
 いろいろな墓地に行ってみると、かなりたくさんのお墓が無縁になり放置されていたり、管理する家族のなくなったお墓の墓石が一箇所に集められているのを見出します。先祖代々の墓と言っても途中で途切れてしまうことも間々あるのだと思います。まして現代のように核家族化していくと、何世代にもわたってお墓を維持することなかなか困難です。教会にお墓があれば夫婦だけの世帯でも、結婚しなかった人でも、たとえ子供があっても、教会と言うコミュニティーが維持していくので心配は少なくなります。
 死後の世界があることをしっかり知っている新教会人は、お墓のことを余り心配しなくても済みそうですが、それでも人間としての喪失感や寂しさ、心配は避けて通ることはできません。そのためにも教会にお墓があれば支えあうことももっとしやすくなるかなと感じています。

2010年6月6日(日)牧師 國枝欣一

 神の愛は「無条件の愛」といわれます。行いが正しい、正しくない、良いことをした、しない、頭が良い悪い等、一切関係のない愛が「無条件の愛」です。そこに存在している、それだけで愛される、その様な愛を「無条件の愛」といいます。
 ところが私たちの人生は「条件つき愛」に満ちています。「良い子だったら・・・」「宿題やったら・・・」「テストでよい点を取ったら・・・」「早くご飯を食べたら・・・」「兄弟げんかをしなかったら・・・」「お手伝いをしたら・・・」等等。この「もし・・・」の付く愛の表現は全部「条件つき愛」の表れです。大人になっても「予算達成したら・・・」「子供を産んだら・・・」「何時までにこの仕事を終えたら・・・」と続きます。
それらの条件を満たせないことで、私たちは自信を失い、他人の評価ばかりを気にし、他人と自分をいつも比べるということになります。結果として辛く暗い人生(地獄の生活)を送ることになってしまいます。人は無条件の愛に接することで、リラックスし、自信を持ち、朗らかになり、エネルギーが出てき、人々とつながることができます。
この「無条件の愛」は神の似姿である私たちすべてに備わっているものです。それを使うときに、私たちの中で神が働きます。誰にも与えられているものをフルに使いたいものです。
2010年5月30日(日)牧師 國枝欣一

 密教は仏教の一流派で、容易に知りえない秘密の教えと言う意味で、日本のほかに、中国ネパール、チベットなどにも広まった教えで、神秘主義は神や絶対者などの実在を独自の直接的、内面的な経験や直感によって捉えることができるという哲学、宗教上の立場であると広辞苑にあります。私たちの教派はスウェーデンボルグの霊的、神秘的体験に基づく神学から成り立っていますので、神秘主義ということができます。広辞苑には書いてありませんが、ようするに、東洋に端を発したものを密教と言い、西洋で始まったものを神秘主義といいますが、二つは結局同じものではないかと私は考えます。
 日本では密教と言うと空海によって創立された真言宗や最澄によって確立された天台宗が有名ですが、特に空海の教えとスウェーデンボルグの教えは大変よく似ています。空海と最澄の大きな違いは、空海は奈良仏教を統合化したのに対して最澄は経典を選択的に使い奈良仏教と対立しました。この最澄の選択的経典の使い方は鎌倉仏教に受け継がれていきます。 
 教会の歴史では旧教カトリックと新教プロテスタントに分けますが、スウェーデンボルグの教えの中では私たちの新教会に対してプロテスタント教会を旧教会と呼びます。それが典型的に現れるのが三位一体論に対する三一性です。私たちが「一人の神」を大切にすることは重要なことですが、現代のプロテスタント教会が三位一体論を唱えているから三つの神を信じていることになると言うのはちょっと短絡的過ぎると思います。私達は現代に生きるものとしてもっと旧教も新教も良く知り、新教会がキリスト教会全体を統合化できる力を持ちたいと思います。
2010年5月16日(日)牧師 國枝欣一

  エリザベス・キューブラー・ロスというスイス生まれのアメリカ人精神科医は「死ぬ瞬間」と言う本を書いて一躍有名になった人です。1970年代まで医療は直す技術で、誰にでも訪れる「死」と言う問題に関わろうとしてきませんでした。彼女は死者を食いものにする悪徳医師という中傷にもさらされ、病院を辞めさせられるということも経験し、30人のエイズ患者の子供たちを里子にして、その子供たちと共に暮らしながら援助をしようと考えて施設も作りましたが、地域の人々の偏見にも直面し、自宅も放火されるという目にも会っています。
 今では日本でも患者にインホームドコンセント (告知)することはごく普通になりましたが、それが重要なのは患者に嘘をつかずに真理を伝えるということにあります。真理を伝えると言うことは生の医学的データーをそのまま伝えることではありません。患者や家族が分かるように真理を伝えなければなりません。
 キューブラー・ロス医師は子供たちにも例外なく告知しています。子供には理解できない、患者は告知されたら気落ちして死期を早めてしまうなどと言うのは、実は患者自身を心配すると言うより、家族や周囲の人自身の恐怖から来ているということを知るべきです。
 真理を患者に伝えることは一時期患者にも家族にも辛い時期となりますが、嘘がないためにフランクな関係を患者と作りやすく、最後の時を充実した天国的な時としやすくなります。知恵、理知、知識などは、神から来るものです。彼女はその真理を求めることに一生を捧げました。
2010年5月9日(日)牧師 國枝欣一

 地獄という霊的な場所は、相手を出し抜くために何時も隠している部分があって、自分を他と比べ相手より自分のほうが上とみんなが思っているところだそうです。そうだろうなと私も思います。自分をいつも他と比べていると、この世にあっても気が休まりません。常に競争相手といて相手より上にいないと安心できないからです。
 天国とは、自分はそのままで相手に仕え合うところといわれています。ここには嘘も秘密もありません。この世にあっても隠すことがないということは実に楽です。嘘があったり隠し事があったりすると、それがバレないように嘘を重ねていかねばならないことがありますが、これは精神的にもかなり大変です。そのままで居られるという事がいかに天国的なのかと言うことが分かります。そういうことから天国では人々は家族以上に家族だと言う言い方がありますが、本当にそうだろうなと思います。
 教会に於ける人間関係は主に連なる関係ですが、これは同時にそれぞれの方の中に働いている主を見て信頼し愛し合う関係です。そこでは相手に対する尊敬の念を持った意見も言える関係も含まれます。心理学で言うWin-Winの関係すなわち勝者と敗者の関係ではなく共に勝者になれる関係を目指すことでもあります。こうした関係をつくりたいものです。
2010年4月25日(日)牧師 國枝欣一

 主の創造物語は「~あれ!」という主の期待を込めた命令形のことばで始まっています。そして人を神にかたどって創られ、「それは極めて良かった。」と言われ、第七日目を休まれたと書かれています。全てを良しとされたのです。
 私たちの東京新教会も主の創造の過程の中に生まれています。そこに集う人々も同様ですので極めて良い存在です。誰一人としてどうでも良い人は存在していません。東京新教会が昭和の初めから続いていることの中に主の祝福があり続けたことは疑いありません。
 そこに 深い感謝を感じます。現代の物質主義社会は行き詰まりを見せ、人々は神を求めています。こころの安らぎを求めています。新教会はそうした人々を受け入れる最も良い受け皿のはずですが、そうなれていない現実があります。この苦しみも私たちの霊的成長のために良しとされています。
 マグダラのマリアが復活の主に最初に会ったように、主を深く愛する人が主に会います。宇宙全体を司っているその力に私たちも委ねることができればよいのですが、それが私と言う執着心から自由になれずにいます。その執着心が主の招きを見えなく聞こえなくさせています。 総会を通して共に主にあることを憶え、一致することで目前にあることを共に乗り越えて行きたいものです。
2010年4月18日(日)牧師 國枝欣一

 私は昔から物にも命があると感じていました。ですからどんなに古くても使えるうちは使いそのものの命を全うさせてやるのが人間の勤めだとも思っています。それが消費者運動、環境保護活動や、自然保護の活動とも結びついていました。今では教会やホライズンの活動で忙しく直接的にはそうした活動には参加していませんが、意識の上では同じところに居ます。
 息子が小学校1年生になった時、彼に私の使っていた鉛筆箱をあげました。その鉛筆箱は戦後叔父が使い、姉が使い、私に回ってきたものでした。息子は小学校1年から大学生になってまで、その鉛筆箱を使い続けました。使い捨ての時代に逆行するようですが、私は物の命がある限りそれを使い続けます。
 古くなるというのは多分に自分の意識が影響しています。その意識が自分を取り巻いている環境に負荷をかけることになります。先週は復活祭でしたが、命の復活ということはそのものをそのものとしてみる目を持てたときに、そこに存在する命を発見することです。神の働きを見るということは全てに与えられた命が宿っており、自分も含めてその命に気づき、役立ちを全うする、そこに主の復活があると私は考えています。
2010年4月11日(日)牧師 國枝欣一

 娘の香南子が11年の大学生活をやっと終え、学位を取得し、就職先の大阪に旅立っていきました。昨年3月の時点ですでに論文は発表されており、卒業要件は整っていたのですが、その後の研究中の結果が思うように出ずにさらに一年の研究生活を就職先の了解を得て延長していました。連日終電車まで実験を重ねやっと論文を書き上げての就職でした。
 内定取り消しが新聞紙上で問題になっているご時世に、就職を1年待って研究結果を出すようにと言う会社のあることに驚きを感じました。彼女は教師に恵まれ、ラボの仲間に恵まれました。その上会社にも恵まれました。結婚をしていますので、これからしばらく別居生活が始まります。1年後には会社の研究所が藤沢に完成するので二人の生活はまたはじめることができる予定なのですが、どうなることやら。
 人間関係に恵まれるということは、心理学的には自己への気づきが深まり、自分の経験していることに精通することですが、宗教的、霊的には自分と周りの人々に働く主の働きに注目することです。主が導いてくださっているということに気づけると謙虚になって、安心して人とつながれるようになります。娘にもそうあってほしいと願っている父親です。
2010年4月4日(日)牧師 國枝欣一

 とても温かい心を持ち、人々の役に立ちたいと思っている若い夫婦に出会いました。数ヶ月前にある講座の講師をつとめたときに出会った夫婦でしたが、ホライズンセンターのワークショップに来たときには、二人に何となくよそよそしさを感じました。夫はイライラし、妻は彼の苛立ちに接して戸惑っている様子でした。
 正直な彼らはこの課題に取り組みました。1日目に妻の方が自分の表現方法に偏りのあることに気づきました。3日目には夫が自分のいら立ちの原因が妻にあるのではなく、自分の生育暦に起因していることに気づきました。気づいた結果として二人の関係が改善され、人に奉仕するという気持ちがますます強くなってきたようです。
 彼らはクリスチャンでもありませんし、教会の礼拝に出たのは先週が初めてという、ごく普通の日本人です。しかし彼らの中に主が働かれ、みことばの復活がまさに起こったのです。生活が大変で日曜日も働かねばならないようなので、すぐ教会と結びつきにくいですが、彼らが内なる教会を育て私たちの交わりにつながってくれたらいいなと祈っています。礼拝に参加して二人はとても温かさを感じたようです。主の働きの大きさを改めて強く感じさせられた学びのときでした。感謝!   
2010年3月28日(日)牧師 國枝欣一

 毎年書いていますが、北半球のイースターは春です。冬から春への季節の移行は、冬の間葉を落としていた植物が芽を吹き、鳥が繁殖のためにさえずりだし、命の復活を誰でも感じるときだと思います。この春の命の躍動を感じられる地域に住んでいることに幸せを感じます。
 私は木が芽吹く前に庭の木々の剪定を行います。 丁度この頃に庭の一角にふきのとうが出てきますのでそれを摘み取り朝の味噌汁の薬味にしたり、自己流のふき味噌をつくります。ふきのとうは発がん性物質を含んでいるということで家内には不評ですが、毎年作ります。ふき味噌を食べ始めるとつくしが出てきます。つくしが終わる頃になるとサンショウが芽吹き始めます。すると今度はサンショウの若葉を摘み取りすり鉢ですって木の芽和えをつくります。作り始めると竹の子が出てきます。この間に山茶花が終わり椿が咲き沈丁花が香り桜が咲きます。これは毎年繰り返される私の春の体験です。
 復活祭は北半球のヨーロッパにキリスト教が伝わったときにヨーロッパの土俗信仰と重なって取り入れられたものだということですが、私たちは主の復活イコールみことばの復活と捕らえます。春の芽吹きも鳥のさえずりも主が配慮してこれらを通して私たちにみことばの復活を促しているのです。ただ単に自然的現象としての春の訪れを見出すだけでなく、そこに主の働きを見出しつつ、自分の生活を見直してゆきたいと思います。
2010年3月21日(日)牧師 國枝欣一

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