教会からのお知らせ

今週の週報後記は こちらから
【日本人としての誇り】
 私がハワイで学んでいた時の話ですから、もう大分前の話で申し訳ありませんが、観光客である日本人の若者の傍若無人さに恥ずかしさと怒りを感じたことがありました。”Japan as NO1”等という本も出て経済的な好調さがある意味で日本人に自信を持たせたような時代でした。その後バブルがはじけて失われた20年等といわれ、日本は自信喪失する訳ですが、その上、東日本大震災によって、東北の太平洋沿岸は壊滅的な被害を受けます。
 この年、世界に最も良い影響を与えた国として日本はBBCの調査で1位になっています。そしてISに捉えられた湯川さんと後藤さんが殺害された事件に対し、命をかけて湯川さんを助けようとした後藤さんに関して賞賛の声とともに、湯川さんの父親の記者会見の言葉が韓国でも大きく取り上げられたようです。「お騒がせして申し訳ありません。・・・政府や関係者の方々の努力に感謝します。」
 深い悲しみにありながら、周りに配慮する姿勢、政府や関係者に感謝する姿勢に多くの韓国人は感銘を受けたとのことです。私たち日本人の中には確かに湯川さんの父親のような価値観があります。それが当たり前のために自国の中にいると気づけません。幸いにして今はネットで検索することにより多くの情報を得ることができます。それらの情報で私たちは自分の持っている様々な資源を発見できます。
 独善的な自負心は周りに迷惑をかけます。しかし私たちには自分の文化と他の文化を融合する力を古代から持っています。私たちの土台となる価値観を見据え、そこにスウェーデンボルグ神学を接ぎ木する時に、私たちの持っている価値観(信仰)は神の摂理を明確にし、(頭の中ではなく)、生活の中で豊かに実を結ぶことになると思います。そうした土壌の中に生まれたものとして誇りを持ちたく思います。
2016年4月3日(日)牧師 國枝欣一
【イースター・復活祭】
 イースター、復活祭の歴史的な由来に付いて書きます。
 イースターはキリストの復活を祝うお祭りですが、教会暦の中で最古の祝日と言われています。使徒時代から祝われていたようです。イースターという語は、ゲルマンの春の女神に由来するとも言われていますが確実ではないようです。しかし復活祭はユダヤ教の過ぎ越しの祭に準じているために、混乱も起きました。
 この混乱を治めるためもあって325年に現在のトルコにあるニカイアで会議が開かれ、復活日は「春分につぐ満月の後の最初の日曜日に守る」と決定しました。このためイースターは毎年日にちが変わるということがおきます。過ぎ越しの祭は、ヤハウェが全てのエジプトの初子をうった時、イスラエルの家を通り過ぎたという出エジプトを記念するユダヤ教に取っての大切なお祭りです。
 最後の晩餐はこの過ぎ越しの祭りの中で行われました。したがって主の聖餐は、この過ぎ越しの祭が原型となっています。そのため当初は、主の復活を記念するというより、罪からの解放と主の再臨の待望が強調されたと言います。主の復活日という事がはっきりして来たのはニカイア会議以降、4世紀以降と言われています。
 イースターには彩色された卵(イースターエッグ)とウサギの絵が使われる事が良くありますが、これもかなり古くから習慣のようです。卵はヒヨコが生まれるということから復活を、ウサギは多産ということで繁栄を示します。昔、ヨーロッパでは、タマネギの皮を取って置き、それを煮出して染料とし、卵にヨモギの葉などを貼付けて染めていました。それをウサギの卵と言っていました。
2016年3月27日(日)牧師 國枝欣一
【教会・エクレシア(2)】
 北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国が残った時、ユダ王国の人々は、自分たちこそ神から選ばれたもの、正しい者だと思ったユダヤ人達がいました。彼らはアッシリアと戦って勝てると思っていました。それに否を唱えたのが預言者エレミヤでした。彼は国を明け渡して捕囚になる事を主張し、そうすればやがて帰れ、建国する事ができると民と国王に宣言します。しかし受入れられません。
 エレミヤは周りの人が受け入れてくれない事で、預言をする事を止めようとしますが、しかし預言せざるを得なくて預言します。すると嘲笑を浴び、非難され、逮捕されて、身も心もボロボロになります。主のみことばを伝える事の大変さを思います。それは文字通り命をかける事につながります。
 新教会は、聖書全体を主の成長を記していると考えますので、預言者を主の表象と理解します。そうするとエレミヤ書は主の青年前期に当たります。主の成長は私たちの精神的成長の過程をも同時に示します。現代社会は、難民受け入れの問題にしても、原発汚染の問題にしても政治的にも社会的にも難しい課題を抱えています。エレミヤの時代の民の要求も彼の預言もきわめて政治的な事柄に関するものでした。
2016年3月20日(日)牧師 國枝欣一
【教会・エクレシア】
 教会を意味するギリシャ語はエクレシアですが、エクレシアの元々の意味は「召集軍」「集会」です。それが新約聖書の中では、「教会」、場合によっては地域的・共同体という意味に使われる様になりました。その背景には「主に所属する集められ た神の民」というギリシャ語があるようです。ユダヤ教社会の中にありながら、ユダヤ教の一宗派ではなく、古いユダヤの相続者であり、新しい世を経験しているものの集まりと考えていました。
 17世紀スウェーデンの国教はルーテル派のキリスト教でした。当時教会は区役所や市役所のような働きもしていました。共同体の構成員全てが、日曜日教会に行く 事が当たり前でした。その結果信仰の形骸化が起こっていました。そのためにスウェーデンボルグは、一人一人のうちに教会を建てそこに主をお迎えする事の大切さを強調しました。主と「私」の結びつきを強調しました。
 教会の語源としては、人々の集まり、集会が意味されており、スウェーデンボル グは個人の主との結びつきを強調しています。実はこの両者が教会形成のために欠 くことのできないものです。教会という集団を維持するために構成員の共通理解が 必要ですが、その共通理解である集団維持のいのちを新しくして行く事が必要です。それは具体的には教会の中にあって一人一人が新たにされる(再生)事です。
 私たちは再生を繰返し経験して霊的成長をして行きます。教会内に属するものは更に再生を促し、その経験を分かち合う事で周辺にいる人々の決心を促す事ができます。主が私たちと共に歩んで下さっている、共に苦しんでいて下さっている、共 に喜んで下さっているという事を、日々の生活の中でどのように感じ、それが自分 の生活にどのような影響を与えているのか、もっと分かち合えると良いと思います。
2016年3月13日(日)牧師 國枝欣一
【意図、欲求、願望】
 全ての人の全ての言動には正当な意図、欲求、願望があるというのは、一つの人間観ですが、その正当性を神経言語プログラミング(NLP)という心理療法は沢山の事例から証明しています。もしその考え方を取り入れるならば、教会内の全ての信徒の異なった意見の背後にはそれぞれ教会に対する正当な意図、欲求、願望があるという事になります。私はそれを受け入れます。
 ところがこの意図、欲求、願望は自分では気づきにくいという傾向を持っています。この気づきにくさが関係を困難なものにします。私はこの20年間一貫して牧師の説教を始めその言動を批判して欲しい、それは牧師を育てる事だと言い続けています。批判や評価することで、牧師は自分自身を振り返る機会を与えられるし、皆さんの教会に対するイメージや理想像も分かります。
 それぞれの正当な教会像が理解できれば、それらをならべ 比べる事ができます。
またそれを意識する事ができれば、自分がどう行動すれば良いか現実妥当的な選択ができる様になります。これはミネソタ州立大学で開発された心理療法に明記されており、私の実践の中でも多数確認されています。それが教会内で上手く働かないのには、不信感があるからではないでしょうか。  不信感はその相手の中に原因がある様に思いがちですが、実は自分の中に有るものです。相手が自分の中にある不信感を導きだしてくれているのです。なぜならばもしその人の中に不信感が無かったら、どんな相手と接しても不信感という感情は出て来ないはずです。意図、欲求、願望に集中すれば、私たちの中にある不信感は払拭され、天使が私たちを導いてくれ、霊的に成長できます。やってみましょう。
2016年3月6日(日)牧師 國枝欣一
【感情】
 感情とは簡単に言えば喜怒哀楽です。しかしこれを自覚することは意外と難しいです。難しい原因は、感情には強弱があることです。同じ喜びであってもそれを強く感じることもあれば、うっすらとしか感じていないこともあります。複数の異なった感情を同時に感ずることもあります。感情はその人の思考に影響を与えるので、考えや解釈に焦点が当たって感情の存在に気づきにくくさせていることもあります。
 旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神と言われることがあります。しかし神は一貫して愛の神だというのはスウェーデンボルグの教えです。子どもを愛する親が時に厳しく子どもに当たるのは子どもへの愛を失ったからではなく、将来立派な大人にしたいと願うからという訳です。とはいうものの現実の生活を見直すと、躾と子どもを虐待することの区別のつかない大人の多いこともまた困ったことです。
 子どもの虐待は、親の感情の未熟さから起きると言われます。感情の訓練など私たちの生活のなかでは系統的に行われるなどという事はありません。しかしどのような感情に自分が支配されているか深く知ることができれば、相応の考え方を使って自分の霊的な環境を知ることができる様になります。
 ちょっと立ち止まって自分の感情を見て行くと、自分が深く傷ついていることに気づけます。もうとっくに赦してると思っていたことが、そうではないことに気づかされることもあります。こうした時、少し難しいですが、同時にその人・事の中に感謝できる事が無いか探してみる事は、自分の霊的環境を変える事の助けになります。感情に気づき、それを感謝で充たしてゆける時、私たちは天界への準備をすることになります。それを系統的に学べるのが新教会です。
2016年2月28日(日)牧師 國枝欣一
【宗教とは】
 宗教とはと訊かれて明確に応えられる人はどれ位いるでしょうか?宗教的活動と言っても明確に「宗教」活動と認められる活動もあれば、生活習慣としかいえないようなもの迄種々雑多です。宗教を仮に、宗教を持っている人に取って人生の支えとなり、安らぎや希望を与え、人生の道しるべともなり、人間らしく生きることを教えてくれるものとするならば、ある種のイデオロギーもカリスマ的人物も熱狂的支持者に取っては宗教の代用をしているという事が可能でしょう。
 「宗教」の「宗」の字は「宀」と「丁」から出来ており、「宀」は建物を表し、「丁」は机を示しています。「示」という文字は机の上に置いた犠牲とそこから滴り落ちる血を示しています。従って「宗」は神を祀る建物となり、その教えを言葉化することで「教」が成立します。宗教は元来部族、民族単位のものでした。人々は同じ習慣同じ儀式に従うので、そこに一体感を創り出していました。 
 しかし、仏教、キリスト教やイスラム教が現れることで、その創始者を持ち、その教義が明確になると、その教えは部族や民族を超え普遍性を持つ様になりました。こうなると信仰も一人一人が自分の心で「教え」を受け止め、深めて行かなければならなくなります。こうなると原始宗教が持っていた一体感や忘我の境地などを持ちにくくなります。それゆえ個人化が極端に進むと宗教は力を失いやすくなります。
 これは我々の抱えている問題です。一緒にプログラムを考え、智恵を出し合って実施し、共に飲み食いをすることで、人と人がつながり、支えたり、励まされたり、生かされるのです。個人として主と私という関係において信仰を深めると同時に、実践を通して集団として共通の体験をすることもまた欠くべからざるものなのです。
2016年2月21日(日)牧師 國枝欣一
【新しいことを学ぶ】
 4月を目前に、最終学校を卒業し、社会に出て行く青年が沢山います。新入社員として採用された彼らは、新人研修に参加したり、先輩社員に見習い仕事を理解して行きます。器用に新しいことを消化し、組織風土になじんで行く若者がいる一方で、覚えの悪い社員、組織になじみにくい若者もでてきます。私の関係する看護学校でも毎年1年未満で止めてしまう看護師がでてきます。もったいないと思います。
 私たちは赤ん坊の時にみんなトイレットトレーニングを受けました。成長とともに身体の器官が発達して、やがておむつが取れパンツで生活できる様になり、排便排尿の自立が完成します。私たちの記憶には残っていなくても、個人差があって、多少の早い遅いはあるにしても、みんな最終的には、おむつから自由になります。  最近の心理学の発達で、分かって来たことがあります。
 それは何かと言うと、高卒、大卒の新人であろうと、中年高年であろうと、何か新しいことを学ぶ時は、幼児のトイレットトレーニングと同じだという事です。相手が分かる迄教え続ける必要があるということです。そう腹をくくれば、教える側にも余裕がでてきます。これは何に関しても言えることで、パートナーのちょっとした仕草であっても、仕事上の業務であっても、教会生活でも同じです。
 親が子どもを育てる折の大きな要素は、子どもへの《愛》です。それは神からの神の性格の流入でもあります。ところが「何度言ったら分かるのか」とか「面倒くさい」と思い、そこに自己愛が流れ込んで来てしまい、それに翻弄される私たちがいます。大切なことを言い続ける強さ、伝え続ける忍耐強さ、実はこれも神の欠くことのできない性格です。私たちは神の似姿としてつくられていることを認めるならば、選択の自由を使うことを通して教えることを通して主への愛へ近づけるのです。
2016年2月14日(日)牧師 國枝欣一
【日本の報道写真】
 東日本大震災から5年。被災地の風景は震災前と大きく変わったことはもちろんですが、復興中の風景もまた刻々と変わっています。多くの報道写真に私たちは接してきました。多くの方々が犠牲となり、助かった方々も、家族、親類、縁者を亡くしました。未だにご遺体に出会えないままの方が多くいます。私たち直接被災していない者達の記憶からは、あの東日本大震災の記憶は薄らいでいないでしょうか。
 当時の被災状況を知るため古い新聞記事を読み、報道写真集に目を通しました。3000枚以上の写真を目にしました。当時の記憶がよみがえってきます。しかし不思議なことに、そこに、亡くなった人々の写真は1枚もありません。ただ1枚津波に巻き込まれた人の写真がありました。その方はその直後住民によって救助されたという事でした。しかし海外に発信されていた報道写真は違いました。
 助かった女性の写真ですが、全身泥まみれになって放心状態にある写真です。一目見れば津波の威力と被災地の困難さが分かります。それは建物が廃墟に成り、漁船や観光船が市街地に流れ込んでいる写真より、その威力の大きさと、援助の必要性を強く訴えかけます。日本国内での報道写真は海外のものであっても被災者、被害者の写真は少ないのではないでしょうか。
 悲惨な写真が良いと言う訳ではありません。報道する側の自主規制が、権力者による報道管制と同じ効果を上げてしまい、何が真理、真実であるのか、住民の生活に不可欠なものか、主権者である国民に伝わらなくなる恐ろしさを感じます。ダンプカーの行き交う被災地の9m,11mにかさ上げされた土地をまえにして、そんなことを考えました。
2016年2月7日(日)牧師 國枝欣一
【天使と私たち】
 幼児虐待がニュースになります。幼い命が親の暴力によって断たられます。痛ましいかぎりです。2週間程まえには大学生がバス事故で13人も亡くなりました。こうした報道に接する度に私の魂が、痛みを感じているのを感じます。二つの事件は全く異なった事件ですが、私には共通の何かによって引き起こされた事件の様に感じます。その共通の何かは一体何なんだろうとぼーっと思っています。
 圧倒的な力の差の中で翻弄される魂。虐待を受ける子どもはもちろんですが、暴力を振るう親やパートナー、運転技術の未熟であることを自覚しているのに、それでも運転を引き受けざるを得ない運転手、不当な契約を飲まざるを得ない会社。みんな何か不当な力の犠牲者の様に感じます。<いのち>を軽んずる不当な力それは何なのか・・・。そんなことが心の中をずっとうごめいています。
 人間の存在の意義、生きること、生かされていることを奪ってしまう暴力的な力。人の価値、生きることに参加させてもらっているその価値から遠ざけてしまうマイナスな力。人の持っている使命、与えられている<いのち>を正しく使う機会を奪う力。それらがその人の役立ちを台無しにしてしまう。何か良く分からないけれどそうした暴力的で、マイナス、悪魔的な力が私たちを覆っている様に感じます。
 ちまたでは、保健所や児相、警察の連携を強めること、関連省庁の規制を強化することが叫ばれていますが、それだけ?と思います。もっと身近な所、家族や友人関係といったところからの改革が必要な気がします。教会はそうしたことのできる柔らかな場のような気がします。建前論ではなく、そこに居る人々との本音での関わりが広がって行くとき、周りの人が善と真理へと導かれるのではないでしょうか。
2016年1月31日(日)牧師 國枝欣一
【天使と私たち】
 今年は申年、牧師は年男です。ところで猿と人間とに DNA の差はごく僅かとのことです。このわずかな差が決定的な違いを生み出しています。以前新聞かなにかで、ニホンザルの研究者の娘さんが猿とコミニケーションが取れると言う話を読んだことがあります。彼女の話によれば猿の家族は温かく、思いやりがあって、嘘がないという事でした。
 そこで思い出したのが、ピラミッドやアステカ等の高度な文明を持った古代人のことです。ピラミッドがどのように建造されたか謎のままです。インカ帝国でつく られた様々な建造物石組の組み方は剃刀の刃が通らない程ぴったりと組まれているそうです。ピラミッドは 4000年経っても壊れず残っています。それに比して先の東京オリンピックで建てられた丹下健三に依る競技場は雨漏りだらけで困っています。
 スウェーデンボルグによれば最古代人は、みな主と直接的につながっていたが、時代が下るごとに人間は自分から天界との絆を断ち切ってしまったと言います。そのために主は人間一人一人に天使や霊を送り、彼らを通して主に導かれる様にされた(HH247)といいます。確かに自分の内面、心の内を深く見つめて行くと、愛と善の働きを認めることができます。しかし人間の反応の殆どは過去の記憶からきます。
 人間における過去の記憶の影響は1日の行動の中で97%以上を占めると言われて居ます。猿にはその記憶が少ししかありません。だから主の流入を受け入れやすく猿の家族は温かく、思いやりがあって、嘘がないという事になるのでしょう。真実 を見る目、真実を聞く耳を持って、過去の記憶からどれほど自由になり、天使の囁きに注意することで、私たちの行動が変わリ、教会がこの世の天界となるのです。
2016年1月24日(日)牧師 國枝欣一
【21年前の阪神大震災】
 阪神大震災の第一報に接したのは、ハワイオアフ島でスピリチュアルケアの実習中でした。州立精神病院で患者訪問のために病棟を移動している時に、日系の女子職員から、「日本で大きな地震があったらしいよ。」といわれました。当時は病院内の施設に住んでいましたので、部屋に戻り短波ラジオのスイッチを入れ、聞き耳を立てました。病院内のTVでは詳しいことが分からなかったからです。
 はじめは400人程の死者が出ているという事でしたが、それが時間を追うごとに700人、1600人、2000人、3000人、やがて5000人を超えました。オアフ島は天気が良く静かに時間が経って行きます。患者さんのためのプログラムがそれぞれの専門家によって行われ、時間になると、閉鎖病棟には食事が運ばれ、開放病等の患者さんは大きな食堂でおしゃべりし乍ら食事をします。
 インターネットが今の様に発達しておらず、ニュースに関して話し合える人もなく、大勢の人々の中に居ながら、金魚鉢に入れられた金魚の様に外界から隔絶 された存在になった様に感じました。その後1ヶ月ほどして、LAのウェイフェアラー教会の夕拝で話をさせていただきました。私はその年の9月に帰国し、東京新教会の牧師に就任しましたが、情報の格差問題は、未だに大きな問題です。
2016年1月17日(日)牧師 國枝欣一

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